第一部 ゴースト 10
「麻衣子です。遅くに申し訳ありません。ちょっと伸也に変わりますので」
麻衣子が、むすっとした顔で前に突き出した携帯電話を受け取る。
「夜分にすいません、実はトラブルが起きていまして、僕と貴斗が怪我をしているんです」
「貴斗……グロウの関係か」
くぐもってた荒川の声が、低く、クリアになる。
「新宿署の爆発と、早川さんの拉致はご存じですね。それに関連して、グロウに追われています。僕は太腿を刺されただけですが、貴斗は肩をやられてかなり出血しています。早く医者に診せないと危ないんですが、警察にもグロウの手が伸びていて、一般の病院は危険です。どこかに警察に通報しない病院を知っていませんか」
「貴斗は拓真グループにいたんじゃなかったのか。奴がどうして怪我をして、お前たちと一緒にグロウから追われているんだ」
「僕もよくわからないんですが……」
伸也は拓真グループのアジトでの出来事を話した。黙って聞いていた荒川は、伸也が話し終わっても、返事を返すことはなかった。しばらく沈黙が続いた。伸也が耐えきれず声を出そうとしたとき、声が聞こえた。
「栗山さんは、お前を助けようとしたんだな」
「はい……彼女がやったとしたらですが」
「今、どこにいる」
「横浜の中区、首都高インターチェンジの手前です。車に乗っています」
「貴斗の様子はどうだ。東京までもつか」
「振動があると、かなり痛がります」
「心当たりを探す。また電話する」
そう言って電話が切れた。
「どうだった」
「拒否しなかったよ。病院を探してくれるらしい」
車内に重苦しい沈黙が降りた。エンジンのアイドル音と貴斗の荒い息だけが響く。奈緒はぼんやりと前を向いたままだ。
「奈緒さんは、どうしちゃったの? グロウにひどいことをされて、ショックを起こしたの?」
「違う。俺の肩をぐちゃぐちゃにしたのはこいつだよ。それに拓真さんも殺した」
「それってどういうことよ。彼女は武器を持っていたの?」
伸也は首を振った。「栗山さんは後ろ手に縛られていたんだ。武器も何も、貴斗たちに手を出せる状態じゃなかった」
「だったら、貴斗は何で彼女がやったって言うのよ」
「それは……よくわかんないけど、衝撃が来たのは確かに奈緒の方向からだった。それに、拓真さんも奈緒だと思っていたよ。だからこいつを殺そうとしたんだ」
「で、拓真は上下に引き裂かれたんだ」
「じゃあ栗山さんは、超能力でも使ったって訳? バカじゃないの」
「力が……出てきたんです」
奈緒がぼんやりした目で、ささやくように呟いた。
「どこから出てきたのよ」
「わかんない。わかんない……」
奈緒の目から涙が溢れ、頬を伝っていく。
「ごめんごめん。大変だったのね」麻衣子が慌てて、運転席から身を乗り出し、背中をさすった。「大変だったのね。話さなくていいから」
携帯電話がバイブレーションし始めた。伸也が画面をタップする。
「荒川だ。川崎市にある知り合いの医者が受けてくれることになった。車にカーナビは付いているか」
「はい」
「住所を言うから入力してくれ」
カーナビを起動させ、荒川の言う住所を入力した。
「中野医院だ。入り組んだ場所にあってわかりにくいかもしれないが、入り口の明かりを付けておいてくれるから、前を通ればわかるはずだ」
礼を言って電話を切った。カーナビの登録ボタンをタップすると、案内が始まった。麻衣子はハンドブレーキを解除して、ゆっくり走り出す。歩道の段差を越えた時に車体が揺れて、貴斗がうっと苦しげにうめいた。
麻衣子はカーナビの指示に従って首都高に乗った。なるべく振動を起こさないため、ゆっくりと進む。他の車は深夜のため、かなりスピードを上げている。何台もの車が疎ましげに車線変更して、麻衣子の車を追い越していった。
荒川は電話を切ると、電話番号のリストを表示させた。その中の一つをタップする。待ち受け音が響き始めるが相手は出ない、十回を超えても辛抱強く待った。
不意に待ち受け音が消えた。しかし声は聞こえてこない。
「もしもし、蓮村先生ですか。荒川です」
携帯電話の向こうから息を吸う音が聞こえ「どうしました」と、かすれたようにやや震えた声が響いてきた。
「夜分申し訳ありません。お久しぶりです」
「構いません、ずっと起きていましたから」
「今日、新宿署が爆破されたのはご存じですね」
「ええ。夕方のテレビはそればかり放送していましたからね」
「この件に関して、グロウが関与しているというのはご存じですか」
「ある程度想定はしていました。多少突っ込んだ報道をしていたメディアで、ある半グレ団体が関与している可能性があると話していましたから」
「あいつが感情にまかせて、ここまで大それた事をするはずがありません。恐らく周到な準備を進めた上でやったんでしょう」
「我々が恐れていた事態が始まったということですか」
「そう考えます」
電話からの声が途絶えた。わずかに息をする音だけが聞こえてくる。
「蓮村先生、一緒に戦っていただけますか」
「私はすでに八十近い。体力も気力もない。役に立てることなど一つもない」
「しかし、先生は誰よりもこの件についてご存じです。それに責任の一端もあるはずです」
電話からかすれた笑い声が聞こえてきた。
「一端どころじゃない。全面的な責任は私にある」
「ではなおさらお願いしたい」
「彼らを救えないか、我々を守れないか、ずっと考えてきた。しかし答えは出ない。行動を起こすにしても、個人ではあまりに無力だ」
「しかし、あのとき玄は言いました。『選ばれし者たち』が我々を救うと」
「それは我々の期待が玄にそう言わせただけかもしれない。そもそも、玄という存在そのものが我々の作り出した幻かもしれない」
「しかし、私たちはあの力を身をもって体感しているはずです。今もまだその力は存在しています」
「私はもう何年も力を試していないし、試す機会もない。試したいとも思わない。すべては遙か昔に起きた出来事だ。無責任と思っても構わない。もう、すべて終わりにしたいんだ」
「蓮村先生、まさか死ぬ気ではありませんね」
再び蓮村は沈黙した。それがすべてを物語っていた。
「ついさっき、私の知人から助けを求める電話がありました。彼はグロウに拉致されて、拷問を受けたそうです。それを同じようにグロウに拉致されていた女性が助けたのです。女性は手も触れず、道具も使わず、拷問をしていた男の肩を打ち抜き、リーダーを真っ二つに引きちぎったそうです」
「彼女が『選ばれし者たち』だと?」
「私はそう考えています」
「しかし彼女は辻田側の人間である可能性もありますよ。そもそも玄は信頼にたる存在なのでしょうか。あの後ずっと議論したが、結局結論は出なかった」
投げやりな声に少し苛立ちを覚えながらも、荒川は感情を押し殺し、話し出す。
「彼女は拷問を受けた男性を助けたいという善意から力を引き出したのです。あいつらとは違います」
「地獄への道は善意で舗装されているということわざは知っていますね。十字軍、ロシア革命、クメールルージュ。善意から始まった出来事が、悲惨な結末を迎える事例は数多くあります。その女性が受け取った力は、混乱を加速するためにもたらされたのかもしれません」
「蓮村さんの懸念は当たっているかもしれません。でも、彼女の力で混乱が拡大するとしても、最終的な結果は同じです。それが無駄になるとしても、わずかでもこの災厄を避けられる可能性があるのなら、私は追求していきたいのです。蓮村先生、戦ってください」
ため息が聞こえてくる。
「考えておきます」
「構いません。すべての流れが決するまで、死ぬのは待ってください。よろしくお願いします」
返事もなく、電話は切れた。
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