第一部 ゴースト 9

 意識を失っていたのはわずかな時間だったようだ。気がついたとき、伸也は床一面に広がった血だまりの中で横たわっていた。生臭さと金臭さが充満する部屋で、殴られたような朦朧とした意識のまま立ち上がった。血をたっぷり含んだ服が、やけに重いなと上の空で思う。


 目をかっと開き、鬼のような形相で何かを叫んだまま、時が止まってしまったように、口を開けたまま宙を睨んでいる拓真の上半身が目に入った。恐怖と共に、意識がクリアになっていく。部屋の隅では、痛い痛いと言いながらあえぎ、うずくまっている貴斗がいた。反対側では、血だまりに膝をついたまま、壁をぼんやり見続けて彫像のように微動だにしない女性がいた。奈緒だ。拓真の手下は貴斗以外いなかった。きっと逃げてしまったのだろう。


 このままだと、連絡を受けたグロウの連中が、大挙して押しかけてくる。警察を呼ばなければならない。伸也は周囲を見回し、両手を縛っている結束バンドを切る物がないか探した。貴斗の足下に伸也の太腿を刺したナイフが、血の中で見えていた。伸也はナイフがある場所まで行き、太腿の痛みに耐えながら、背を向けてしゃがんだ。血だまりを手探りする。


「おい、伸也……。助けてくれよ。左肩が痛くてたまんねえんだ」


 横たわっている貴斗がかすれた声で話しかけてきた。


「今更何言ってやがる。俺をなぶり殺しにしようとしたくせに」


「仕方がなかったんだよ。拓真の命令は絶対だ。拒否したら、俺も殺されていたし、俺がやらなくても代わりがやったんだ。わかるだろ」


 手に硬い物が触れる感触があり、物を掴んだ。まちがいない、ナイフだった。刃の位置を確認しながら逆手にもち、結束バンドをこすった。パチッという音がして、手が解放された。立ち上がり、奈緒の結束バンドを切った。奈緒はまだ、茫洋として壁を見続けている。とりあえず、警察へ連絡するため通信手段を探さなければならないと思い、部屋を出ようとした。


「お願いだ。助けてくれよ。グロウの奴らにこんなざまを見つかったら、使えねえって即殺されちまう」


「警察だったら殺さないよ。救急車も手配してくれるだろ」


「警察は止せっ」


 唐突な叫びで伸也はいぶかしげに振り返り、貴斗を見た。怯えたように、目を震わせている。


「どうしてだ。捕まるのが怖いのか」


「そうじゃねえ、警察が来る前に、グロウが察知するかもしれないんだ。お前、何で新宿署が爆発されたと思ってんだ」


「さっき、俺に電話してきた刑事が、SDカードの話をしていたけど」


「そうさ。SDカードを破壊するため新宿署を爆破したんだ。じゃあ、なんでグロウはSDカードが新宿署にあるってわかってたんだ? それは、警察の情報が、グロウに筒抜けになってたからだよ」


 警官には近づくな。電話で叫んだ竹井の声を思い出した。


「心当たりがあるような顔をしているな」貴斗が口をゆがませるようにして笑った。「グロウのスパイがどれだけ警察に浸透しているか俺もわからない。ただな、警察無線程度なら、俺でも簡単に聞けたぜ。お前の情報がパトカーに流れたら、間違いなくグロウも来るはずだ。運良く警察に保護されたとしても、グロウはお前らの居場所を突き止めて、殺しにかかる」


「でも、栗山さんの居場所は早川さんから聞いたんだろ。警察の情報は守られたんじゃないのか」


「あれは担当していた刑事が隠していたからだ。今回の前に一度他のグループが奈緒を拉致しようとしたが失敗して、別の場所へ移された。居場所を知る奴は早川と竹井だけ制限されたんだ」


 貴斗の話はつじつまが合った。警察は当てにならないし、グロウのメンバーがここに来たら、貴斗は間違いなく殺されるだろう。


「なあ、頼むよ。助けてくれ」


 貴斗が中学生のとき、健常者の高校生と喧嘩をして、袋だたきにされてきたときのことを思い出した。連絡を受けて駆けつけたときもこんな目をしていた。――奴ら、俺が透明になったら、気持ちわりいって笑いやがったんだ――粋がっているくせに本当は心が弱くて、情けない胸の内が時折垣間見える。変わっていないなと思う。


「立てるか」


「ああ」


 貴斗は左肩をかばいながら、ゆっくりと立ち上がる。


「逃げた奴らはグロウに見つかったら処分されるのがわかっているから、どこかとんずらしているだろう。ただ、拓真は定期的に上と連絡を取っているはずだ。何も連絡がなければ、不審に思ってここへ偵察にくる。早く俺たちもずらからないと」


「でもこの姿じゃ、どうしようもないだろう」


 三人の服は思い切り拓真の血を吸っていたし、体は透明だ。こんな状況で心を整えられるかわからないし、奈緒にいたっては、間違いなく無理だろう。


「着替えはないし、素っ裸で逃げるしかないだろう」


「この寒空でか」


「しょうがねえだろ。透明で服なんて最悪な組み合わせだ。第一、こんな濡れた服じゃあ防寒になんかなりやしねえ」


 伸也は奈緒を見た。壁を見つめたままで、二人の声が聞こえているのかわからない。


「あいつも裸になってもらうしかねえだろ。だいたい、お前んとこに逃げてきたときも裸だったんだろ。風俗にいたときもほとんど素っ裸だったし、抵抗はないよ」


「お前、彼女が風俗にいた時を知っているのか」


「まあな」貴斗は目を逸らした。


「じゃあ、あのSDカードの画像が何か知っているのか」


「その話は後だ。ともかく今はここから逃げなきゃ」


 三人は血だまりの部屋から出て、リビングへ行った。時刻は午前二時。伸也は服を脱いだ。貴斗は立っているだけがやっとなので、伸也が脱がせた。上着は服を動かしただけで、激痛が走ると言うので、はさみで切った。奈緒も自ら喋ることはなかったものの、伸也たちの会話は理解しているようで、自分から服を脱いだ。


「ここはどこだ」


「横浜の根岸台だ」


「公園があったよな」


「ああ。すぐ隣だ」


「とりあえずそこへ逃げよう。携帯電話はあるか」


「あるけど、ここから出たら使えないぞ。位置情報アプリをインストールされている」


「ここで使えればいい。麻衣子の番号はまだ登録してあるか」


「ああ」


「掛けてくれ。俺が出るから」


 貴斗が携帯電話を操作して、伸也に渡した。呼出音が長く続いた。頼むから出てくれと祈りながら携帯電話を耳に押しつけていた。


「もしもし……」


 麻衣子の不審そうな声が聞こえた。


「伸也だ」ほっとして話し始める「悪いけど、これからレンタカーを借りて、こっちへ来てほしいんだ。それと男物服二着と女物の服を一着買ってきてくれ。下着を含めて」


「待って、どういうことよ。この電話、貴斗のでしょ」


「ああ。今は詳しく説明している暇はないんだ。ともかく来てくれ。場所は横浜の根岸台公園。駐車場で待っていてくれ」


 三人は拓真グループのアジトになっている家を出た。冷たい風が容赦なく吹き付けて、体温を奪っていく。めまいがしそうなほどに寒かったが、太腿の傷は焼けるように熱く、力を込めると激痛が走った。柵を越えて林に入り、駐車場が見える場所まで移動した。しゃがみ込み、寒さに耐えながら、車が来るのを待った。


 限界を超える寒さに耐えながら、駐車場の入り口を凝視していると、一台のハッチバックが入ってきた。がらんとした駐車場を、持て余すかのように徐行しながら移動している。深夜を立ち上がり、慎重に駐車場へ出た。街路灯からの明かりで、一瞬運転席が見えた。麻衣子だ。伸也は足を引きずりながら運転席へ近づいた。


「あら。その格好、どうしたのよ」


 車を止め、窓を開けた麻衣子は目を丸くして伸也を見た。


「話は後だ。こっちへ来てくれ」


 伸也は麻衣子を貴斗たちがいる茂みの前まで移動させ、服を出してくれと頼んだ。ドンキホーテの黄色いレジ袋を受け取って一緒に茂みに入ると、麻衣子の顔色が変わった。


「あんたたち……。ここで何やってるのよ」


「は?」


「は、じゃないわよ。男と女が裸になってたら、やることは一つでしょ。しかもこんな屋外で。この変態」


「誤解するな。裸になったのは逃げてきたからだよ。それに奥を見ろ。貴斗もいるだろ」


 睨み付ける麻衣子に怒鳴りつける。


「貴斗。怪我をしているの?」


 奥で苦しげにあえいでいる貴斗を見て、ようやく麻衣子もただならぬ状態だと理解したようだ。


「ともかく服を着させてくれ」


 レジ袋からグレーのスエットを取り出して着た。奈緒は自分で着始めたが、貴斗は伸也が手伝った。右腕は袖を通せないので、首を通して上からかぶせた。赤黒い色の一日がスエットからにじみ出てくる。体から出てくる体液や、切断した髪の毛は、なぜか色が付いてくるのだ。


 暖房の効いた車の中へ入り、温度をマックスに上げてくれと頼んだ。麻衣子がサイドブレーキを解除して、ハッチバックが発進した。駐車場を出て道路を走り出す。体も心も、ようやく一息ついた。


「これからどこへ行けばいいのよ」


「とりあえず東京へ戻ろう。それから考える」


「それじゃあ首都高に乗るわ」


 麻衣子が再び車を発進させたが、途中で貴斗がうめき始めた。


「痛えよ……段差とかあるたび……凄く傷に響くんだ……ああっ」


 貴斗は刃を食いしばり、額から脂汗をかいていた。血の染みも肩から胸に広がっている。


「ちょっと止まってくれ」


 麻衣子はハザードを点灯させ、路肩に止めた。


「貴斗の怪我、かなりひどいの? だったら病院へ行こうよ。救急病院なら、透明症でも診療拒否とかしないし」


「病院はだめだ。警察に通報される」


「じゃあどうしようってのよ。このままだとあんた、死んじゃうよ。ねえ伸也、何が起きたのよ」


 伸也は昨日からの経緯を話した。


「それじゃあ貴斗は早川さんを拷問して殺し、伸也も殺そうとしたわけね。最低だわ」


 運転席から振り向き、怒りに目を震わせながら、吐き捨てるように言い放った。


「どうしようもなかったんだよ。断れば俺がやられてた」


「じゃあ早川さんは、死んで良かったの? あんたも早川さんに世話になったんでしょ。この人でなし、ここから出て行って」


「頼むよ。痛くてたまんねえんだ。お願いだからたすけてくれ……」


「病院へ行く。それが最大限の妥協よ」


 麻衣子がサイドブレーキを解除した。


「ちょっと待て、貴斗がやったことは悪いよ。でも、死ぬとわかっているのにこいつを見捨てることができるのか」


 麻衣子は歯を食いしばりながら伸也を見ていた。怒りをたたえた目が潤み、涙が頬を伝った。


「どうして早川さんを殺した奴をかばうのよ」


「かばっているんじゃない。すべてが終わったらこいつに裁きを受けさせる。ただ、それで見殺しにするのは別問題だろ」


「悪かった。本当に悪かったと思ってるんだ」


 貴斗が体を震わせながら涙を流し始めた。麻衣子が大きく息を吐き、ハンドルに突っ伏した。


「で、どうしろって言うのよ。東京へ行っても病院へ行けないんじゃあ、貴斗、死んじゃうよ」


「荒川さんならなんとかしてくれるかもしれない」


「荒川?」


 麻衣子が体を起こし、いぶかしげに伸也を見た。


「あの人なら、医者を知っているかもしれない。前に田口が靱帯を切ったときも、処置をして、知り合いの医者に連れて行ってくれただろう」


「でも、貴斗はもうDROPのメンバーじゃない。赤の他人だよ。しかも喧嘩別れして出て行ったんでしょ。虫が良すぎるわ」


「とりあえず電話してみなきゃわからないだろ。俺が説明するから、荒川に電話を掛けてくれ」


 麻衣子が冷ややかな視線を貴斗に向けた。


「頼むよ。荒川には詫びを入れるから」


 麻衣子は何も言わず視線を携帯に戻し、ボタンをタップする。呼び出し音がしばらく鳴った後、「もしもし」と眠たげな荒川の声が聞こえてきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る