第一部 ゴースト 7
翌日の朝、目を覚ますと、すでに午前九時を過ぎていた。瞑想をして体の色を戻し、ランニングをするためスエットに着替え、トイレへ行くためドアを開けた。リビングを横切ろうとしたときだ。ソファにスーツ姿の母親が横になっているのが目に入った。もうマンションを出てなければ、仕事に間に合わないはずだ。
嫌な予感が、一気に脳天までつき上がる。
「母さん」
母親は息子の声に反応して、「うーん」とくぐもった声を出した。顔は青白く、眉間にしわを寄せたまま、目を閉じている。酒臭さはないので、二日酔いとは違う。
「どこか、痛いところがあるの?」
「てか……うこかない。きゅうきゅうりゃ」
口の動きがおかしい。ろれつが回らない。
「救急車だね。わかった。すぐ呼ぶからね。待ってて」
伸也は急いで部屋へ戻って携帯を掴み、リビングへ戻りながら百十九番をタップした。住所と母親の症状を伝えて、救急車を頼む。
「母さん、待っていたいすぐに救急車が来るから」
「しんぃやぁ……れんれくしないてね」
目を閉じ、うわごとのように呟いた母の言葉に、心臓が貫かれるような痛みが駆け抜けた。
「連絡するなって言うんだろ。わかってるから静かに寝ていて」
耳元でささやきながら、背中をさすった。やがてインターホンから救急隊員の声が聞こえてきて、伸也は彼らを部屋に入れた。
「脳梗塞の可能性があります。すぐに病院へ行きましょう」
母親は担架に載せられて救急車に乗った。伸也も同乗して、新宿の救急医療センターへ向かった。病院に着いて母親が診察室へ連れて行かれるのを見届けると、荒川へ電話を掛けた。
「そりゃまずいな。とりあえず明日のステージは休んで母親のところへいてやれ。代役はなんとかするから」
「はい、ありがとうございます」
次にソファの横に転がっていたバッグを開けて、母親の名刺を取りし、そこに書いてあった電話番号から、母親が勤めている会社へ連絡を取った。上司に彼女が倒れて仕事へ出られない旨を伝える。
はあっと、息を吐きながら、名刺入れに名刺を戻し、バッグへ入れようとしたときだ。中にあった緑色の小さな紙が目に入った。レストランの割引券だ。
こんなところへ行っていたんだ。胃がぎゅっと締め付けられる。
母親は集中治療室へ入れられ、点滴で薬剤を投与されることになった。午後まで病院にいたが、容態は安定しているというので、何かあったら連絡をしてもらうよう頼み、一旦自宅へ戻った。
医師の話によると、早期に発見できたので後遺症は重くないとのことだが、リハビリも含めると、すぐに退院はできないという。ネットで入院に必要な者を検索して、家にある物を調べていたときだ。
携帯電話に着信があった。画面を見ると「小野貴斗」と表示されていた。昨夜に見た、奈緒のおびえた表情や、殺された黒岩の記憶が一気に蘇る。伸也は深呼吸を一つして、画面をタップする。
「もしもし、貴斗だ。久しぶりだな」
「ああ……。どうしてたんだ。ずっと連絡したのに、返事ぐらいよこせよ」
「悪いな。俺も新しい生活を始めたんで、ちょっと忙しくてさ。ところで、ちょっと聞きたいことがあるんだが、昨日の晩、共進会に新しく入院した人がいるって聞いたんだが、誰か知っているか?」
「俺がわかるわけないだろ」
言いながら、表情がこわばる。共進会の入院患者は恐らく奈緒だ。
「そうだろうな。ちょっとあるところから、誰が入院したのか調べてくれって頼まれているんだ。悪いけど、共進会の早川に聞いてくけるとありがたいんだが」
「そんなもの、お前が聞けばいいじゃないか。早川さんならお前だって知っているだろ」
「俺はな……ちょっとまずいんだ。いろいろあってさ」
「拓真グループか」
「何だ、知ってるのか」
「もう有名だよ」
「だったら話が早いや。早川は拓真さんを毛嫌いしているからな。メンバーの俺が聞いたって答えるわけがないんだ」
「あるところから頼まれたって言うと、どうせグロウの関係だろ。悪いけど協力できないし、そもそも早川さんは患者のプライバシーについては一切公表しない」
「伸也」不意に拓真の声が低くなる「ペーペーは存在感を出していかなきゃいけないんだ。使えない奴なんてレッテルを貼られたらおしまいだ。トップを張ってるお前にはわかんないだろうがな」
「伸也、拓真グループから抜けられないのか」
「アホか。こっちから頼んで入ったって言うのに、抜けるわけないだろ」
「荒川さんから言付けがある『お前には才能がある。ダンスを止めるな』と。俺も同じ意見だ」
へへへと下品な笑い声の後、通話が切れた。リダイヤルしたが、もう繋がらなかった。
医師の話によると、母親は危険な状態からは脱しているとのことだった。もう少し様子を見た後、集中治療室から一般病棟へ移されるという。ほっとして病院を出たところで、早川から着信があった。
「お母さんの状態はどうだね」
「はい、おかげさまで順調です。もうすぐ一般病棟へ移れるそうです」
「それは良かった。面会できるようになったら連絡してくれ。一度お見舞いに行ってくるよ」
「はい、お願いします」
「ところで、君と麻衣子さんが助けた子の件なんだけど、警察が君たちに会って事情を聞きたいと言うんだ。悪いが会ってもらえるかな」
「わかりました。きっとそんな要請があると思っていました」
「そうか。じゃあ君の電話番号を教えるから」
早川との通話を終えてまもなく、見知らぬ番号から着信があった。電話に出ると、新宿警察署の竹井だと名乗った。中年の男性の声だった。今から会って話を聞きたいというので、近くの喫茶店で待ち合わせすることになった。指定した喫茶店に入ってコーヒーを飲んでいると、スーツ姿の男が二人入ってきた。一人は若くて痩せ型で背が高い。もう一人は対照的に、中年で小太り、髪の毛は短く刈っており、若い男より頭一つ分背が低い。中年の男が先に入ってきて、店内をじろりと見回し、伸也と目が合った。躊躇することなく、つかつかと伸也へ近づいてくる。
「宮本伸也さんですか」
「あ、はい」
「新宿警察署の竹井です。このたびは、貴重なお時間をいただきましてありがとうございます」
「いえいえ、とんでもないです」
若い男は浅川と名乗った。名刺をもらって席に着く。離れている時は気づかなかったが、面と向かうと、竹井から強い威圧感を感じた。理由は体型からだろう。太っているように見えたが、肩の盛り上がりは明らかに筋肉によるものだった。柔道かレスリングでもやっているのだろうか。
「早速ですが、栗山さんを保護したときの状況を教えていただけますか」
伸也は麻衣子から電話があったときの状況を話した。竹井は手帳を広げ、几帳面な細かい字で、伸也の話をメモしていった。
「栗山さんが麻衣子さんの自宅近くに来たのは、黒岩さんに教えてもらったということですね。どうして黒岩さんが彼女の自宅を教えたのか、心当たりはありますか?」
SDカードの件が頭に浮かび、口にしそうになったが口元で止まった。
「ちょっと……わかりません」
竹井が鋭く伸也を見据える。「本当ですか。些細なことでもいいんです」
ヤバい。何か隠してるのがばれてるな。にじみ出る威圧感が伸也を圧迫した。
「実は」耐えきれず話し出した。「先日、ステージからの帰り道で、酔っ払いの男性が僕にぶつかってきたんです。男の人は背中しか見えなかったんですけど、背格好が黒岩さんによく似ていました。で、家に戻って、ポケットを見てみたら、いつの間にかSDカードが入っていまして、眠っている男性の動画が入っていたんです」
「それは今、どこにありますか?」
「自宅です」
「申し訳ありませんが、それを貸していただけないでしょうか」
「承知しました」
伸也は刑事たちが乗ってきたセダンに乗せてもらい、自宅のマンションへ行った。
「これです」
伸也は玄関の前で竹井にSDカードを渡した。礼を言って帰って行く竹井たちの後ろ姿を見て、伸也はほっと息を吐いた。心の片隅でわだかまっていたものが、すっと解けていく気がする。話したのは正解だった。後は警察が調べてくれるだろう。
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