第一部 ゴースト 6

「襲われたのは池袋駅近くの路上だそうだ。時刻は午後十一時。目撃者は多数。彼らの話を総合すると、道の隅から出刃包丁が浮かび上がって、黒岩の脇腹に突き刺さったそうだ。おそらく裸の透明症の男が待ち伏せしていたんだろう。防犯カメラにも移っていたが、犯人の輪郭がおぼろげにわかるだけで、顔までは認識できなかった。透明な手袋をしていたらしく、包丁から指紋は検出されなかった」


 早川からの電話を受けて、伸也は努めて冷静にそうですかと答えた。


「どうかしたの?」


 動揺が顔に出ていたのだろう。電話を切ると、向かいで蒸し鶏のサンドイッチを頬張っていた麻衣子が、いぶかしげに見ていた。


「一月前の夜、俺たちに声を掛けてきた黒岩っていうライターがいただろ。あの人、池袋で昨日殺されたんだ」


「あら……」


 麻衣子は目を丸くして驚いた。伸也は早川からの話を伝えた。


「犯人は間違いなく透明症。栗山さんの売春がらみの話だったら、犯人はグロウの関係者かしら」


「恐らくそうだろう」


「嫌だわ。あたしたちにまで危害が及ばないかしら」


「俺たちは栗山さんを助けただけだし、関係ないよ」


「そうよねえ」


 笑顔を見せた麻衣子にあわせて、伸也も微笑んだ。


 麻衣子のマンションから、二人でDROP専用のスタジオがある品川へ行ってレッスンを終えた後、伸也は自宅のマンションへ戻った。鍵を開け、母親が仕事へ出かけているのを確認して、自分の部屋へ入る。ノートパソコンのスイッチを入れると、机の引き出しへしまってあったSDカードを取り出した。何の変哲もない四角い小片。十日前に伸也のポケットに入っていた物だ。伸也が自分で入れた記憶はなく、気がついたのはステージの帰り、寒くてポケットへ手を突っ込んだときだ。


 ステージへ向かう時にはなかったので、ステージ中か帰りに誰かが入れたのだろう。DROPのロッカーはカードキーでロックされているので、誰かが入れることは考えられない。可能性があるとすれば、DROPの通用口を出たときだ。


 あのとき、酔っ払いが斜め後ろから酒臭い息を吐きながらぶつかってきた。前につんのめりながらも、かろうじて転ばずに済んだ伸也は、文句を言おうと男を追いかけたが、すぐに見失ってしまった。ただでさえステージ後で疲労困憊しているのに、酔っ払いを探す気力もなく、気をとり直して歩き始めた後に気づいたのだ。


 男の顔は見えなかったが、背格好に既視感があった。


 ひょろ長い体型。黒岩だ。


 SDカードは下手にパソコンへ繋いでウイルスに感染させられたら嫌だったので、ずっと机にしまい込んでいた。しかし黒岩が殺された事実と、十日前にSDカードをポケットへ入れた男が黒岩だった可能性が高い場合、揉め事に巻き込まれるかもしれない。一度は確認しておいた方がいいだろう。


 スロットに恐る恐るSDカードを差しこむと、名前のない動画ファイルが現れた。クリックする。アプリが起動し、動画が動き出した。


 いきなり眠っている中年男性が映し出された。携帯電話で撮影したのだろう、縦長だ。無精ひげが伸び放題で、ひどくむさ苦しい顔だった。ベットシーツは白で、枕はない。


 画像の横から男の手が伸びてきて、中年男の無精ひげをつまみ、軽く引っ張った。スピーカーから、押し殺したような下卑た笑い声が聞こえてくる。引っ張る力は徐々に荒くなり、顎の皮膚が思い切り引っ張られ、最後はひげが何本か抜けた。あからさまになった笑い声が響いた。二、三人はいるだろうか。


 眠っている男はそれでも目覚めなかった。血色は良かったので、死人のようには見えない。


 画像は唐突に終わった。


 一体これは何なのだろうか。伸也はファイルを閉じてSDカードを引き抜くと、迷ったが再び机の引き出しにSDカードを戻した。


 あのときぶつかってきたのが死んだ黒岩で、ポケットにこのSDカードを仕込んだとしたら、何の目的なんだろうか。面と向かって渡せない理由があるのだろうか。


 まあ、どうでもいいや。黒岩が死んだとして、俺に何の関係があるっていうんだ。伸也は頭の中から映像を閉め出し、携帯電話のSNSをチェックし始めた。




 黒岩が死んでから翌日の事だった。夜の十一時に伸也の携帯電話に着信があった。画面を見ると、麻衣子の名前が表示されていた。いつもメールかSNSで済ませる彼女が、直接電話をしてくるなんて珍しい。


 今日は麻衣子がステージ手の日で、この時間帯ならきっと帰り道だろう。嫌な予感を感じて電話に出る。


「もしもし、どうかしたのか」


「伸也、今うちにいるんだけど、ちょっとに来てくれない? 渋谷で助けた栗山さんがここにいるのよ」


「はあ? どういうことだ」


「あたしだってわかんないわよ。家に帰ろうとしたら、声を掛けられたの」


「ていうか、どうして家に上げたんだよ」


「来ればわかる。お願いだから早く来て」


「わかった」


 自分の部屋にいた伸也はすでに色が落ちていたので、まず色戻法で肌に色をつけ、部屋着からジーンズとトレーナーダウンジャケットを着込んだ。母親に声を掛けようと思ったが、眠っているのを起こすのも悪いと思い、そのままマンションを出た。


 昼間はそれなりに暖かかったが、夜はもう冬の風だった。伸也は足早に大通りへ出て、タクシーを捕まえ、麻衣子のマンションがある新宿へ行くよう告げた。夜なので十分ほどで麻衣子のマンションへ着いた。伸也は麻衣子に電話をしてオートロックを開けてもらい、中へ入った。


「ごめんね。あたしだけだと、どうしていいかわからなくて」


「彼女はどこにいるんだ」


 部屋を覗くと、リビングに人はいなかった。


「お風呂に入っているのよ」


「風呂?」


「彼女、全裸であたしを待っていたのよ」


「は? この寒空で」


「そう。放っておいたら凍え死んでたところよ」


 奥の洗面所のドアが開き、スエットを着た女性が出てきた。顔や手足は透明だ。うっすらとしたシルエットから、彼女が奈緒だとわかった。奈緒は伸也を見ると、はっと驚いた顔をして、洗面所へ逃げ込もうとした。


「彼は大丈夫、渋谷で助けた宮本君よ。覚えているでしょ」


 麻衣子は洗面所へ行き、奈緒をリビングへ連れてきた。スエットは麻衣子の物らしく、小柄な奈緒には少し大きくて、手の甲の半分まで裾で隠れている。


「さ、そこへ座って」


 麻衣子は奈緒の肩を持つようにして、リビングのソファへ座らせた。呆けた顔をした奈緒は、ロボットのように麻衣子に言われるまま座る。


「まず、どうして麻衣子のところへ来たのか経緯を教えてもらえないか」


 奈緒は口を開き掛けたが、唇を痙攣させるように震わせ始めた。


「あ、あの……。あたし逃げてきたんです」


「どこから?」


「えっと……どう話していいのかわかんなくて」


「深呼吸をして。落ち着くから」


 伸也に言われて、奈緒は素直に二回大きく息を吸って、吐いた。


「じゃあ、最初から話してくれる。あたしたちが渋谷であなたを見つけて、アパートまで送り届けてからどうなったの?」


「あの後……その日の夕方でした。女の人が二人来たんです。確か『透明症エイド協会』とか言っていました」


 伸也と麻衣子は顔を見合わせた。透明症患者を支援する団体はいくつかあるが『透明症エイド協会』なんて聞いたことがない。


「その人たちが言うには、早期の治療で元に戻る可能性があるから、私たちと一緒に来た方がいいと。それで毛布を被って車に乗ったんです。


 ガレージみたいなところで車から降りて、上の階へ連れて行かされました。病院で患者さんが着るような服に着替えさせられて、白衣を着たおじさんに光を当てられたり、いろんな質問をされたりしました。


 その後、治療とか言って、ゴーグルを付けさせられて、チカチカする映像を見せられたり、お風呂場でシャワーを顔に浴びせられました。それが凄く長いんですよ。シャワーなんか、途中で行きができなくなって、もう止めてくださいって、お願いしたんですけど、ここを我慢しなくちゃずっと透明症になったままになっちゃうよって脅かされて。あと、パッドみたいのを付けされられて。ピリピリするんですよ。痛くて痛くて涙が出ちゃうんです」


 奈緒は当時の事を思い出したのか、涙を流し、しゃくり上げ始めた。


「凄く大変だったんです。でも、結局治らないって言われて……」


 典型的な洗脳法だ。眠らせずに治療だとか修行とか称する行為をさせて、最終的に人の判断力を奪う。


「このままだと生活ができないし、今までした治療費も、保険適用でないから凄くお金がかかるって……それで風俗で働くしかないって」


 一般の人々が透明症患者を忌避する一方、一部で透明症に対し興奮する性癖を持った人々がいる。こうした人々に向けての風俗店はいくつも存在していた。通常の仕事より実入りがいい事もあり、こういった仕事を選択する女性は一定数存在する。ただし、奈緒のような無知な女性につけ込んで搾取する輩も後を絶たない。


「それで逃げてきたんだね」


「はい……同僚の子からいろいろ話を聞かされて、あたしだまされたんだって気づいたんです。でも、寮はいつも監視する人がいたの。だから夜中に裸になって、こっそり出てきたんです」


「色戻法は習得しているの?」


 奈緒は首を振った。


「その名前だけは同僚の子から聞いたんですけど、やり方は全然わからなくて」


「ひどい話ね」


 色戻法ができなければ社会生活は営めない。奈緒をだました奴らはその方が好都合だったのだろう。


 伸也は早川の個人携帯へ電話をした。


「宮本です。夜分に申し訳ありません。実は行方不明になっていた栗山さんですが、麻衣子のところへ現れまして、かくまっているところなんです……ええ、わかりました。お待ちしています」


 伸也は麻衣子の自宅の住所を伝えて、電話を切った。


「何……どこへ電話をしていたの?」


 奈緒がおびえた目をして伸也を見る。


「今、電話した人は共進会の早川さんていう人なんだ。これからカウンセラーが来て、共進会病院へ連れて行ってもらうよ」


「変なところじゃないですよね」


 今までだまされてひどい目に遭ってきた奈緒が疑うのも無理はない。伸也は携帯電話で共進会のホームページを見せながら説明をした。


「プライバシーは百パーセント守られるし、色戻法も習得できるよ。透明症は指定難病だから、治療費も公費が出るしね」


「そうなんですか。全然知りませんでした」


 奈緒は再び泣き始めた。


「ところで、どうしてあたしの家を知っていたの?」


「それは……黒岩さんから聞きました」


「痩せてて背が高い、フリーライターの?」


「そうですそうです。お客で来たんですけど、何にもしなくてずっと話を聞いていたんです」


「どんな話をしたのか教えてくれるかな」


「それは……」奈緒は表情を硬くして視線をそらす「言えません」


「栗山さん。黒岩さんが殺されたのは知っているかい」


 奈緒は視線を逸らした。「詳しいことは知りませんが、噂では聞いています」


「路上で刺されたんだ。透明症患者が犯人らしい」


 奈緒は両腕で自分の体を抱えるようにして、肩が小刻みに震わせ始めた。


「黒岩さんの死について、何か心当たりがあるのかい」


 奈緒は首を痙攣するようにして振った。どう考えても心当たりがあるのは間違いないが、伸也は追求しなかった。これ以上、彼女の心に負担を掛けるのは難しいだろう。


 しばらくすると、伸也の携帯に着信があった。共進会から派遣された、二十四時間対応しているカウンセリング団体の職員だった。マンションの前に来ているとのことだった。麻衣子にオートロックを開けてもらい、彼らを招き入れた。中年の男女で、奈緒はカウンセラーの女性に背中をさすられながら、伸也たちに話した経緯を再び伝えた。


 奈緒は女性に寄りかかりながら、部屋を出て行った。伸也は男性にこれまでの経緯を話すと共に、死んだ黒岩が関わっている旨を伝えた。


「わかりました。違法性が高い事案でもありますし、警察へ連絡を取らせてもらいます」


 男性が出て行ったが、結局SDカードの件は言いそびれたままだった。奈緒に麻衣子の居場所を教えたのが黒岩なら、例の画像も売春組織に関連がある可能性が高い。正直、関わり合いになるのは嫌だ。いっそのこと処分してしまった方がいいかと思うが、その踏ん切りもつかなかった。


 そのまま麻衣子の部屋に泊まる気にもなれず、タクシーで自宅に戻ると、すでに午前二時だった。ベッドに潜り込んでも、目が冴えてなかなか眠りにつけなかった。

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