第一部 ゴースト 5

 翌日の朝六時、伸也は目覚めると、隣でまだ眠っている麻衣子を起こして一緒にランニングに出かけた。マンションの周囲を走って軽く汗を流し、シャワーを浴びて朝食を摂った。七時半になったので、母親に起きて仕事へ行けとメールをする。


 麻衣子は午後の公演に向けて、リハーサルを行うためDROPへ行くという。伸也は午前中はジムで汗を流し、午後から埼玉にある共進会でダンス教室の講師を務める予定だ。二人はマンションの前で別れた。


 会員になっている二十四時間営業のジムへ行き、トレーナーと相談して組み立てたメニューをこなしたが、昨日声を掛けてきた黒岩の話が気になって集中ができない。結局トレーニングを半ばで切り上げ、新宿駅から電車を乗り継いで朝霞駅で降りた。うどん屋で食事をしてバスに乗り、住宅街の一角で降りた。


 しばらく歩くと総合病院のような白い建物と後者と体育館が同じ敷地に建てられている光景が現れた。門には埼玉共進会病院と銘板が取り付けてある。授業は午後二時からなので、まだ余裕がある。伸也は受付を済ませ、二階へ行った。


 事務局と書いてある部屋のドアを開け、中へ入る。そこには十人ほどの職員がパソコンに向かって仕事をしていた。カウンター越しに「こんにちは」と声を掛ける。一番奥にいた痩せた初老の男性が顔を上げ、朗らかな笑みを浮かべた。事務局長の早川だ。


「宮本君か。今日はレッスンの日だったかな」


「はい。実はちょっと伺いたいことがありまして」


「じゃあ、こっちへ行こう」


 早川に促されて、応接室に入った。ソファに座った。


「お母さんは元気かね」


「はい。おかげさまで。ただ、なかなか酒を止められなくて、困っています」


「透明症の交流会には参加していますか」


「行ったり行かなかったりといったところです。仕事の兼ね合いもあるみたいで」


 早川は悲しげに頷いた。「主催をしている古関さんは経験も豊富ですし、悩みがあったら相談するように言ってください」


「はい」


 伸也は職員が出したお茶を一口飲んだ。


「二ヶ月程前の話なんですけど、渋谷で発症した子について連絡したのを覚えていますか?」


 早川は少し驚いた顔をして見せた。「もしかして、君のところへも黒岩が来たのか」


「ご存じですか」


「うん、先週僕のところへも取材に来たよ」


「あの子に何かあったんですか」


 早川は顔を曇らせた。


「私も安田君に任せたままだったんで、よくわからないんだが、どうやら、彼女は売春をしているらしいんだ」


「どういうことなんですか。彼女は安田さんが世話をしていたんじゃないですか」


「それがだね、安田君が手配した人の話によると、彼女はアパートから姿を消してしまったというんだ。残念だが、よくある話でもあるから、それほど気にしていなかったんだが」


「透明症というと、グロウがらみですか」


「そのあたりは私もわからないよ。でも、その可能性は極めて高い。君もわかっていると思うが、あまり深入りしない方がいい」


「はい。僕もこれ以上詮索するつもりはありません」


 所詮、成り行きで助けた子だし、伸也も深く関わる気はなかった。


「ところで、貴斗君は今、何をしているか知っているかね」


「あいつ……」伸也は小さく息を吐き、ためらいがちに話し出す。「前から大平拓真のグループとつるんでいたのはご存じでしたね。もうべったりらしいですよ。僕はもう、連絡を取っていません」


「その方が堅いだろうな。あのグループに入ったら、行き着くところまで行かないと、抜け出せない。下手に手を出すと、私たちに危害が及ぶ」


「早川さんでもどうにもなりませんか」


「もちろん大平君はここの出身だから、会えば普通に話はできるよ。ただ、あの男はもうグロウのメンバーだし、上から命令は絶対だ。上が私を殺せと言えば、間違いなく殺す」


 早川和彦は今年六十三歳。共進会の立ち上げからのメンバーだ。それは透明症の生き字引であることを意味した。


 透明症が初めて確認されたのは四十年前で、ベトナムハノイの十五歳の少女からだった。当初はタブロイド紙でUFOやイエティと同列の扱いで報道されていたが、程なく現実に彼女が存在することが判明し、世界中の報道機関が彼女を取り上げ始め、ベトナム保険省も調査に乗り出した。その後世界各地で同様の症状が確認され始めると、人々はパニックをおこしはじめた。透明症は伝染するという噂が飛び交い、多くの透明症患者が社会から隔離され、時には殺された。事態を重く見た各国政府は透明症について調査、研究を始めたが、原因はつかめなかった。透明症患者から未知の細菌やウイルスは発見されなかったし、遺伝子に異常は発見されなかった。何よりも、体が透明になるというメカニズムそのものが解明されていない。


 政府が対策に手をこまねいているうちに、透明症患者を世界から排除するグループが生まれ、多くの透明症患者が殺された。こうした事態を憂慮した人々が、政府の援助を得て、隔離施設を作り上げた。日本でも同様の施設がいくつか作られ、その一つがここ共進会だった。


 伸也は事務局を後にして、隣にある職員室へ入った。教師たちに挨拶をしながら奥のロッカーへ行き、スエットへ着替えた。


 共進会の母体は病院だが、全寮制の学校も兼ねている。透明症を発症した子供は、周囲の心ない目から隔離するため、こうした施設へ入れられ、色戻法を覚えさせられる。色戻法は透明症を発症した禅宗の僧侶が考案した、一時的に健常者へ戻ることができる方法だった。現在では多くの透明症患者の生活向上に役立っている。これがなければ、透明症を巡る環境は混沌としたままだっただろう。


 伸也にとって、ここ共進会は、多くの透明症患者がそうであるように、人生で最悪の時期を過ごした場所だった。正直二度と来たくないと思っていたが、それでも講師を引き受けたのは、ダンサーを引退した後、ダンススクールを立ち上げるつもりだったからだ。講師を務めれば、教師としての経験を積むことができる。


「こんにちは」


 職員室を出て、体育館に向かっていると、廊下で小学生くらいの女の子とすれ違った。まだ色戻法を完全に取得していないようで、頬が透明のままだが、悲壮感は感じられない。伸也がいた頃に比べて、透明症を巡る環境も良くなっている証拠なのだろう。


 体育館へ入った。まだ、前の授業が終わっていないので、生徒たちは来ていない。伸也は一人、広々とした空間で、ストレッチを始めながら、不意に貴斗と初めて会ったのがここだったのを思い出した。


 睨めつけるような視線を感じ、振り向くと、そこに貴斗がいた。先に入所していた貴斗は顔半分は色を戻していたが、伸也はまだ透明状態のままだった。


「新入りかよ」


 態度はきつかったが、それでも貴斗は施設のルールや、色戻法を取得するこつを教えてくれた。程なくして、二人はいつも一緒に行動するようになっていた。あのときの記憶が蘇り、伸也は珍しく懐かしさを感じていた。


「こんにちはー」


 女の子たちが五人、体育館へ入ってきた。みんな色が戻っていて、ケラケラ笑い合っていた。次に来たグループは男の子で、所々が透明になっている。その後に来た女の子たちも所々透明だった。透明症患者の子は色を戻した子と、そうでない子でグループを作る事が多い。


 子供たちに混じって、髪の毛が薄くなった丸い顔の中年男性が一人、背中を丸めるようにして入ってきた。上下のスエット姿は運動すると言うより、休日の部屋着といった印象だ。ほとんど肌に色は付いていたが、額の生え際だけがまだ透明だ。始業のチャイムが鳴る。


「はい、皆さん整列してください」


 ダブレットに名簿を表示させ、出席確認をとる。


「北村公威さん」


「はい」


 最後に中年男性が、か細い声で答えた。


 共進会の主な役割は、透明症患者に色戻法を習得させることだ。だから年齢を問わず、新たに病気を発症した人が送り込まれる。北村もその一人で、半年前に発症したという。当然北村は義務教育を終えていたが、ダンスを始めとする運動は、色戻法を取得する上で重要だ。このため、年齢を問わず、ダンスや体育の授業は受けなければならない。


 北村は今年五十四歳。子供たちはもちろん、伸也よりも遙かに年上なので、正直言ってやりにくかったが、拒否するわけにはいかない。


 前後左右に広がって、改めて全員でストレッチを行う。


「まず、先週やったボックスステップの復習から始めましょう。今井さん、何を注意したら良かったですか」


「はい、足下に四角をイメージするんですね」


 色が戻っている女の子が元気に答えた。


「そう。四角形を意識して、その四隅を踏んでいくイメージですね。じゃあ右足から始めましょう。一、二、三、四」


 ほとんどの小学生がリズミカルにステップを踏む中、北村だけ動きがずれる。五十代でダンス未経験、しかも先週から参加したばかりなので、下手なのは致し方ない。早くも北村は息が上がり始め、色のついていた右手が透明になってくる。


「北村さん、落ち着きましょう。手から色が消えていますよ」


「はいっ」


 北村の顔が真剣味を帯びる。


 ここでダンスの授業をする理由は、どんな時でも色戻法の効果を維持する訓練になるからだ。北村もステップを正確に行う必要はない。ただ、ダンスに集中する中で、色が消えないようにしなければならない。


 授業が終わり、小学生がさっさと体育館を出て行く中、北村だけが汗だくになりながら、荒い息でその場へ座り込んでいた。色は完全に消え、肌が見える部分はすべて透明になっていた。


「大丈夫ですか」


「すいません、少し休ませてください」


「北村さん、色戻法を忘れないでください。呼吸はゆっくり規則正しくです」


「はい」


 北村は素直に頷き、呼吸を整え始めた。まだらではあるが、少しずつ色が戻っていく。


 現在世界の全人口の1パーセント弱、およそ百人に一人が透明症患者だと言われている。発症時期は思春期前、十歳前後が九割以上で、五十代で発症するのはまれだ。


 色戻法の習得は、子供の方がたやすい。北村のように成人してからの習得は時間がかかる。それだけでなく、成人は仕事や結婚など、生活スタイルが確立されている場合が多い。周囲の理解度がないと、すべてを失うこともあり得る。伸也は北村に心底同情していた。


「宮本先生はここでの仕事が長いんですか?」


「まだ、半年くらいです。本業はダンサーで、いつも新宿の劇場でステージに立っているんです」


「そういう特技があるといいですねえ。わたくしは物流関係の仕事をしていたんですけど、職場で発症しちゃいまして。上司が事態の収拾に大わらわですよ。わたくしが病気になったことも全社員に知られちゃいましたし、もう会社へ戻れそうにありません」


「在宅で何か仕事が何か仕事ができないんですか」


「わたくしはパソコンも詳しくありませんし、今更在宅と言われてましても、なんにもできやしないんです」


 大丈夫ですよと言いたかったが、生活保護を受給しながら引きこもり、酒浸りで体を壊したり、鬱になったりしている人は多い。彼もそうならければいいのだがと思う。


 北村は立ち上がった。「ありがとうございました」とか細い声でつぶやき、ぎこちなく会釈をして体育館から出て行った。伸也はその弱々しい後ろ姿に降りかかるであろう苦難を想像すると、頑張れと声を掛ける勇気も出なかった。

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