髑髏

白河夜船

髑髏

 近頃、妙な夢を見る。

 仏間で弟と話している夢だ。家のどこかで風鈴が時折りぃんと澄んだ音を立てるので、たぶん季節は夏なのだろう。廻り廊下の向こうに見える山々の緑は色濃くて、青褪めた空に浮かぶ白雲は大きかった。

「もう、どうにも、仕様がない」

 何を話していたものか目が醒めるとほとんど覚えていないのだけど、最後の一場面だけは不思議な鮮やかさで頭に焼き付いている。仕様がない、と弟は呟きながら困ったように、詰まらなそうに微笑して「■年経ったら掘り返してくれ」と云うのであった。

「どこに埋めればいい」

「それは、兄貴が決めることだろう」

 確かにそうだ、と思ったところでいつも目醒める。夢の余韻のせいかもしれない。なぜか眼に熱い涙が滲み、それからややあって、気づく。


 私に弟などいない―――――


 夢の家も、弟も、現実の私にとっては心当たりすらない存在だった。記憶の中に似た何かがあるわけでなく、夢の中にだけ忽然とあの家が在って、弟がいる。

 目鼻立ちは曖昧にぼやけている一方で、右目下の泣き黒子はくっきりと印象に残っている弟の貌を思い出す度、私は云いようのない激情に苛まれた。原因が定かでないそれを既知の感情に当て嵌めて、哀しみや罪悪感めいた何かだと悟るまでには少々の時間を要した。

 どうしてそんな感情が湧くのかは、考えてみても分からない。分からないままに、ぼんやりと焦燥が募る。何かをしないといけない。しかし、どこで何をすればいいのか。




 ■年経ったら掘り返してくれ。




 七月某日。諸用があって親戚の家を訪ねた帰り、駅に電車が来るまでかなり待つようだったので、付近を散策することにした。

 民家の他には田畑しかない寂れた田舎町である。飲食店の一つも見当たらないが、初めて来た土地で物珍しい。気儘に散歩していれば、一時間程度すぐ過ぎるだろう。

 歩いている内、板塀に囲まれた家を見つけた。豪邸ではないものの、他所と比べれば幾分立派で旧家という言葉が似合う。

「―――」

 ふと、その家の前で足を止めたのは一抹の既視感を覚えたためだった。知らない家なのに、知っている。奇妙な感覚に戸惑って、私は辺りを見回した。緑が色濃い山々、青褪めた空に浮かぶ白雲は大きくて、こういう景色をいつかどこかで見たような――――


 りぃん。


 風鈴の音が鼓膜に沁みて、その瞬間、はたと気がついた。ここは夢に出てくる家だ。


 りぃん。


 りぃん。


 りぃん。


 りぃん。


 …………


 …………


 風が吹く度、いざなうように風鈴が鳴る。私は唾を飲み込んだ。ここが本当に夢の家ならば、仏間に弟がいるはずだ。

 莫迦げたことを考えている。おかしなことをしている。そう自覚しながらも私は門を潜って、玄関のチャイムを押した。風鈴が鳴るごとに現実感が削げ落ちて、世界が夢に近づいていく。

 二度、三度、チャイムを押したが誰も出ず、私は引き戸に手を掛けた。自分の家へ入るのに、出迎えを待つ必要はあるまい。

「ただいま」

 無人の家に、独り言じみた私の声が響いた。靴を脱いで仏間へ向かう。


 仏間に弟はいなかった。


 その代わり、いつも弟がいる場所に黒い額縁が伏せられていた。拾ってみればそれは遺影で、古い白黒モノクロ写真が中に収まっている。被写体青年の容貌に見覚えはなかったものの、右目下の泣き黒子から彼が弟であると私には察せられた。


 りぃん。


 りぃん。


 りぃん。


 …………


 蝉時雨に風鈴の涼やかな音が重なる。そうだ。掘り返してくれと頼まれていた。私は遺影を元通り畳に置いて立ち上がった。


 どこに埋めればいい。


 それは、兄貴が決めることだろう。


 夢のやり取りと共に頭を過ったのは、裏山の墓地とその隅に植えられた椿である。先祖代々の墓があるあそこなら寂しさも紛れるだろうと、そう思った。


 りぃん。


 りぃん。


 りぃん。


 りぃん。


 りぃん。


 りぃん。


 りぃん。


 りぃん。


 りぃん。


 りぃん。


 りぃん。


 りぃん。


 ――――


 ――――――


 風鈴の音が頭蓋の内側で反響している。

 導かれるまま私は歩き、やがて荒れ果てた小さな墓地に辿り着いた。藪に囲まれた敷地の隅、蒼黒い葉を茂らせた椿が一本、植わっている。近寄ってみると雑草に紛れるようにして、足許に真っ赤な何かが転がっているのを見つけた。屈んで手に取る。紙椿だ。

 目印のようだと思ったので、そこを掘った。

 落ちていた石で地面を引っ掻き、ほぐれた土を手で掻き出す。泥と汗で服が汚れるのも構わずに、私は黙々と作業を続けた。


 りぃん。


 りぃん。


 りぃん。


 りぃん。


 りぃん。


 りぃん。


 りぃん。


 りぃん。


 りぃん。


 りぃん。


 りぃん。


 りぃん。


 りぃん。


 りぃん。


 りぃん。


 りぃん。


 りぃん。


 りぃん。


 りぃん。


 りぃん。


 りぃん。


 りぃん。


 りぃん。


 りぃん。


 そもそも、私は何を埋めたのか。

 弟は私に、何を掘り返せと云ったのか。

 疑問がぐるぐる頭を巡るが一向に答えは出てこず、しかし約束はきっと果たさねばならない。こつ、とシャベル代わりにしていた石が固いものにぶつかった。

 土を退けてみる。存外に新しい白木の箱が埋まっていた。大きさは両手で抱えられるくらいだろうか。小さくはないが、持て余すほど大きくもない。つい最近埋められた、あるいは埋められた時から時間が停まっているような―――……


 りぃん。


 箱の蓋に手を掛けて、私はしばし躊躇った。箱はずしりと重い。空っぽでは、たぶんないのだ。何かが入っている。開けて、中を確かめなければ。しかし箱を開けようとするほど濃密になる、この匂いはまるで、


 りぃん。


 呼んでいる。呼ばれている。

 私は意を決して箱を開けた。瞬間、箱から赤い液体があふれる。零れる。生温かくぬめったそれは血であろう。長方形の血の池に、生首が――右目下の泣き黒子――弟だ――弟の生首が浸かっていた。


 りぃん。


 あゝ。私は呆然と嘆息した。

 蒼白い肌はいかにも死人めいている。首一つになって生きている者などあるはずがないのだから、当然だ。あまつさえ、断面からは止めどなく血が流れ出ているようだった。死んでいるに違いない。だが、閉ざされた瞼が微かに、ほんの幽かに震えているような気がした。目醒める間際の、緊張を孕んだ震え。

「―――」

 名前を呼ぼうと思ったが、呼べないことがもどかしかった。私は彼の名前を知らない。何と呼ぶべきか分からない。


 りぃん。


 鉄錆の匂いはいよいよ濃くなり、箱から垂れた血は私の足許に水溜まりを作った。いつの間にか陽は傾ぎ、視界が夕焼けの赤さに沈んでいる。


 りぃん。


 弟の瞼が開いた。生気のない昏い瞳が私を捉え、乾いた唇が弧を描く。


 りぃん。


 血で泥濘んだ地面が私の足をずぶりと呑み込んだ。りぃん、りぃん、りぃん、りぃん、りぃん、りぃん、りぃん、りぃん、りぃん、りぃん、りぃん、りぃん、りぃん、りぃん、りぃん、りぃん、りぃん、りぃん、りぃん、りぃん、りぃん、りぃん、りぃん、りぃん、りぃん、りぃん、りぃん、りぃん―――――……風鈴の音があちこちで聞こえる。

 辺りを見回せば、今や墓地は血沼と化して、そこここに茶色いような黄色いような髑髏しゃれこうべが浮かんでいた。彼等が口を開く度、涼やかに風鈴が鳴る。この玲瓏れいろうたる響きは亡者の笑声しょうせいなのだ、とややあって私は気づいた。足はもう膝まで血沼に沈み、最早身動きもままならない。


 弟が嗤う。風鈴が鳴る。


 泣き黒子の上を透明な涙が一筋伝い、どうやら私は何か深刻な間違いを犯したらしいと、その段になってようやく悟った。


 そも、夢に現れたのは本当に彼だったのか。


 私をここへ呼んだのは、



 りぃん。



 髑髏の哄笑が墓地に冷たく木霊している。

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