第44話

「……りか」


 誰かが呼びかけている。微かだけど、知っている声が聞こえる。


 そんなはずはない。私は独りだ。

 

 小雨だけじゃない。もったんも、孔雀院さんも私の元から去っていった。唯一心を許していた篝さんにまで裏切られて、私の周りにはもう誰もいない。今聞こえる呼びかけだって、きっと別の人に向けてのものだ。


 だから返事はしない。


 だって期待してしまうから。私が返事をしたら、その人が笑顔を向けてくれるかもしれないって想像してしまうから。

 私が返事をして、その人が隣をすれ違っていったら立ち直れる自信がない。


 だからこれでいい。理想の未来を思い描くのは、もう疲れた。


「雪莉華、雪莉華! 起きなさい!」



 明確な怒声が聞こえた。

 意識が闇から浮上する感覚があった。明確に名指しされたら誤魔化しが利かない。返事はせずにそっとまぶたを開ける。


 小さな顔があった。純金を溶かしたような髪に、透き通るような白い肌。薄暗いから校舎で見たような華々しさは減衰しているけど、その整った顔立ちは間違いない。


「孔雀院、さん?」

「そうです。孔雀院遠子ですわ」

 

 上体が勝手に起き上がる。

 背中に体温を感じる。抱き起されているのだと理解した。


「どうして孔雀院さんが、ここに……」


 つぶやいてハッとした。記憶を失う前に置かれていた状況を思い出して周囲を見渡す。


 あの妖怪はいない。篝さんもいない。肌寒い洞窟だけが、不気味な静けさとともにそこに在る。


「あの妖怪なら祓われました」


 思わず青い瞳を見つめる。


「もしかして、孔雀院さんが?」


 大きな目がぱちくりする。小さな笑いが静かな空間を震わせた。


「まさか。祓ったのは祓い屋の方です。わたくしは何もしていませんわ」

「そう、ですか」


 どっちにしても信じられない。あれは人に祓えるような存在なのだろうか。

 孔雀院さんが嘘を付いたとは思っていない。あの人は嘘を使って場を盛り上げるような人じゃなかった。


 考えてふと思った。目の前の孔雀院さんは、一体どっちの孔雀院さんなんだろう。


 クラスメイトが孔雀院さんと話すところを見たことがある。峯咲学園に在籍している生徒なのは間違いない。


 でも私にとっての孔雀院さんは幽霊だ。同姓同名の友達は街を去った。こんな所にいるわけがない。何より背中越しに温かいものを感じる。生身の人間にしか持ち得ないものだ。眼前にいるのは、同級生の孔雀院さんで間違いない。


 ちょっと話しただけの同級生がどうしてここに?


 問う前に視界が右にぶれた。乾いた音が洞窟内に響き渡る。左頬が熱を帯びて無意識に手を当てる。

 

 孔雀院さんを見ると、制服に隠れた右腕を振り切っていた。


「ああ、もうっ。手を挙げることはしまいと思っていましたのに、こらえきれませんでしたわね。この孔雀院遠子、一生の不覚ですわ」

「孔雀院、さん?」


 頬を張られた。

 それは分かったけど事態を呑み込めない。何で私は孔雀院さんにぶたれたのだろう。


 両肩をガッとつかまれた。


「あなたバカですの!? 年頃の女性がこんな時間にこんな所へ、それも男性とおもむくなんて! とても淑女のすることではありませんわよ⁉」

「え、えっと……」


 鋭利な視線に見据えられて言葉が出ない。突然の変わりように驚いて発声どころじゃなかった。


 桜色のくちびるが再び開く。


「何かあったらどうするつもりでしたの? まさか、何かあっても自分を心配する人はいないから、なんてくだらないことを言いませんわよね?」


 どうするも何も、そうなった時のことを考えていたらこうなっていない。私のことを心配してくれる人もいない。だったら私が動きたいように動いて何が悪いの? 私が仲良くしようとしても、みんなの方から去っていくくせに。


 素直に告げることははばかられて、私はそっぽを向く。


「何も、なかったじゃないですか」


 息を呑む音が聞こえた。


「それは結果論でしょう! あなた死にかけたんですのよ⁉ 篝という男に騙されて、のこのこついていった挙句に殺されかけた! ちゃんと状況分かっていますの⁉」

「分かってますよ! 信じてた人に、面と向かって君は妖怪のエサだって言われたんです! 自分が殺されかけたことなんて、私が一番分かってますよ!」

 

 感情がわき出す泉のごとく止まらない。あれだけ声を荒げていた孔雀院さんが圧されている。

 どうでもいい。同級生に全部ぶつけてやるつもりでまくし立てる。


「でも仕方ないじゃないですか! 私には篝さんしかいなかったんですよ! あなたみたいに、周りを見渡せば笑顔がある人とは違う! 普通じゃないんですよ私は!」


 気圧されろ。口をつぐんでとぼとぼと歩き去ってしまえ。

 私の願いに反して、端正な顔立ちに覇気が戻る。


「普通じゃないから何だって言うんですの!? それが自分をないがしろにしていい理由になるわけないでしょう! 今の雪莉華はいじけているだけ。見渡せば有るのに、見つけようとせずだだをこねているだけの子供です! それを自覚なさい!」

「さっきから何なんですか⁉ 誰がいつお節介をやいてくれなんて頼みました? 友達でもないのに、何の権利があって私に説教をするんですか!」

「お友達なんだから当然でしょう⁉」


 意図しなかった返答を前に口をつぐむ。私が正しいはずなのに、真に迫っている感じがした。


 重力に引かれるように視線が落ちる。

 何か言い返さきゃ。焦燥に駆られて喉を震わせる。


「だ、誰がいつ友達になったんですか? 教室で数回言葉を交わしただけじゃないですか」

「何を言っていますの? 互いに弱さをさらけ出して、同じテーブルを挟んでクッキーと紅茶をたしなんで、再会を誓い合った仲がお友達じゃないなら、一体何だと言うんですの?」


 反射的に顔を上げる。


 知らない、はずだ。

 

 峯咲学園に在籍する孔雀院さんとは、冷たくあしらってから顔を合わせていない。弱さをさらけ出したことはないし、クッキーをつまみながら会話に花を咲かせたこともない。


 それに最後の言葉。再開を誓ったとまではいかなくとも、戻るのを楽しみに待っていると告げたことはある。


 その話は、幽霊の孔雀院さんにしかしていない。どうしてそれを人間の孔雀院さんが口にするの? 

 それじゃあ、まるで……。

 

「孔雀院さん、なの?」

「何を今さら。何度も名乗っているではありませんの」

「そうじゃなくて。その、幽霊だった頃に会いませんでしたか?」

「会ってますわよ。本当に大丈夫ですの? 気を失った時に頭を打ちました?」

「それは分かりませんけど、あなたは本当に孔雀院さんなんですか? 常に上から目線でお嬢様口調で、それでいて妙にいじり甲斐のあったあの孔雀院さんですか?」

「雪莉華はわたくしを何だと思っていましたの⁉」


 真剣な雰囲気が瓦解した。整った顔立ちに、私の知っている子供っぽさが顔を出す。

 懐かしい。郷愁にも似た感傷とともに、胸の奥から温かいものが込み上げる。


 両腕を伸ばして孔雀院さんの頬を挟む。


「どうして温かいんですか⁉ あの時は霊体でしたよね? 人って生きながらでも霊体を飛ばせるものなんですか?」

「え? ええ、きっとそうですわ……たぶん」


 孔雀院さんが頬を引き吊らせて目を逸らす。

 こほんとした咳払いが場の空気を正す。


「とにかく! わたくしは雪莉華の自暴自棄な振る舞いが許せませんの。猛省なさい!」


 ビシッと人差し指を突きつけられた。


 目の前にいる孔雀院さんは、私の意思で友達になった人だ。

 友達が友達面で説教するのは当たり前。私は素直に頭を下げる。


浅慮せんりょでした、ごめんなさい」

「いいでしょう。それと、もう一つ言いたいことがありますの」

「何ですか?」


 おそるおそる顔色をうかがう。

 引き締められていた表情がふっと微笑む。


「約束通り、戻ってきましたわよ。雪莉華」


 視界の明度が上がった気がした。

 体が動く。やわらかな感触に続いて、甘い香りに鼻腔をくすぐられる。

 

 友達は驚いた声を上げながらも、優しく抱き止めてくれた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る