第17話

 廊下を駆ける。人気のない廊下に私の靴音が響き渡る。


 ほとんどの生徒は、部活動を終えて校舎を後にした。


 私もそのつもりだった。友達にノートを貸してと言われてバッグの中を漁った。教科書をかき分けていくうちに、ノートがないことに気付いた。


 音楽室だと察しが付いた。歌唱のテストで一人ずつ先生に呼ばれる時間があった。待っている間は暇だから、その間自習が許されていた。

 

 私はノートを見て、定期試験に向けた勉強をしていた。途中友達が話しかけてきたからノートを机の中に入れた。そのことを忘れて退室したことを思い出したのだ。


 人のいない校舎は不気味だ。いつもクラスメイトや教師がにぎやかせているから、そのギャップでなおさら寂しく見える。日が落ちかけて暗がりを帯びた廊下は、街灯で半端に暴かれた路地裏を想起させる。


 自然と足が速まる。

 

 一刻も早く校舎を出たい、その一心で足を交互に前に出す。ノートを回収したら階段を駆け下りて、昇降口を駆け抜けたら帰り道でご飯を食べるんだ。新メニューのパスタはどんな味なんだろう。想像するとお腹が空いていく気さえする。


 音楽室のドアを開ける。違う意味で速まったその足で床を踏み鳴らす。授業中に座っていた机の中に手を突き入れ、前腕で内部を薙ぐ。

 

 指が何かに触れた。すかさずつまんで引っ張り出す。


「よかった、やっぱりここだった」

 

 口元が緩む。


 これで帰れる。授業の内容をまとめたノート。授業の内容をまとめて、見て勉強する内に楽しくなるように整えた。

 いわば一つの芸術品。誰かに取られたら、強烈な喪失感を味わうこと請け合いの品だ。


 ほっと胸を撫で下ろして机を離れる。

 やっと校舎を後にできる。駆け足で音楽室の床を踏み鳴らす。


「待ッテ……」


 足を止めて振り返る。

 女子の声が聞こえた気がしたけど、室内に人影は見られない。


「誰?」


 問いかけてみた。私に呼びかけた以上は用があるはずだ。応じれば隠れていても出てくるに違いない。


 予想に反して女子生徒は出てこない。気のせいだったんだろうか?

 

「カマッテクレルノ?」


 ぞわっと鳥肌が立った。

 魂を舐められたような悪寒がした。逃げなきゃ。生物的な本能に駆り立てられて身を翻そうとする。


 動けない。靴裏が貼り付いたように床から離れない。


「な、何で⁉」


 何度足を引こうとしても靴が浮かない。

 

 噴き上がった焦燥が脳天まで突き抜ける。ノートを手放してふくらはぎを握りしめ、背中を反らして引き剥がそうと試みる。


 駄目だ! 断念して靴を捨てようとしても、足を靴から引き抜くこともできない!


 視界でうごめくものがあった。

 体が強張った。恐る恐る床を視線でなぞる。


 黒い粒が集まって人型を形作っていた。家畜のフンを人型に積み上げて、ハエをまとわせればちょうどこんな感じになるだろうか。


 臭い、臭い。臭い! 

 

 納豆を鼻に突っ込まれて潰されたみたいだ。強烈な不快感が胸の奥から湧き上がる。今まで以上に体を捻じって、無理やりにでも足を引き離そうと試みる。変なひねり方をして痛みが走ったけど、そんなこと気にしちゃいられない。


「動いて! 動いてよッ!」


 気持ち悪い人影が歩み寄る。


 臭い。

 それ以上に怖い。あれに触れられたら、私はどうなってしまうんだろう。


「アソ、ボ?」


 あと一歩の距離まで来た。黒い腕がおもむろに伸びる。


「嫌ああああああああああっ!」


 口から悲鳴がほとばしる。

 声を張り上げたのと、薄暗い室内が明るみを帯びたのはほぼ同時だった。



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