第16話
本来時間は一方通行だ。時間を遡行する魔法はあれど、時間を巻き戻すには膨大な魔力が要る。
魔力をコネコネするにも時間を要する。俺は飼い猫を演じつつ、適当に白菊さんの部屋でだらける生活を送った。
ある日、猫は得だと気付いた。
真っ昼間から寝そべっていても、誰にも何も言われない。会社員だった頃は上司が残業を押し付けてきたし、グランアースに行った後は休む暇なんてなかった。寝ているだけで衣食住が手に入る。この生活はくせになる。
だから早く脱却しないといけない。
俺は高校生活をやり直す身だ。その生活には勉学が付きまとう。食っちゃ寝の生活は楽だけど、身に沁みつくと学業に大きな支障が出る。
脱却の第一歩は巻き戻しから始まる。過去に戻って神隠しの現場に突っ込み、その場で見られる現象を分析する。
現象と相対する都合上、時間遡行分の魔力だけでは不安が残る。
この世界には妖怪がいる。小雨のように友好的な個体がいれば、モアイ頭のごとく人を食べ物としか思わない奴もいる。
時間を巻き戻す魔法の行使には多大な魔力を要する。練るにも量に応じた時間が掛かる。その間に強力な妖怪に襲われたらアウトだし、何より俺自身が神隠しに遭うかもしれない。それは論外だ。ただの間抜けに堕ちるなんて御免こうむる。
有事の際に対処できるように、最低限力は残しておきたい。
反面、時間をかければかけるほど巻き戻す時間が長くなる。魔力生成、策を練る時間、現場に向かう時間の確保。それらを踏まえて、ベストと思われる時間軸を決めた。
満を持して時間遡行を行う。景色が巻き戻る様を眺めながらタイミングを計り、魔法を中断して屋根から下りる。
神隠しの被害者全員を助けてやりたいところだけど、あいにくそんな余裕はない。最初の時間遡行で魔力を使いすぎた。もう一度あれをするにはグランアースに戻る必要がある。あっちは魔素が濃い。この世界よりも効率よく魔力を練れる。
正直それはしたくない。
魔素が濃いということは、文字通り濃度が高いということだ。濃い方は薄い方に流れる。俗に言われる浸透圧のルールだけど、それは魔素にも当てはまる。
俺があのドアを開けるたびに、グランアースからこの世界に大量の魔素がなだれ込む。
多量の魔素が混じった時、この世界にどんな影響がもたらされるか分からない。下手をすれば犬や猫が凶暴化して、最悪魔物に突然変異する可能性もある。無暗にグランアースとの行き来を繰り返すのは危険だ。
できればこの時間軸で神隠しに接触したい。駆け足で猫一匹コンクリートの地面を踏み鳴らす。
「ん」
知り合いの背中が見えた。
人じゃない。妖怪だ。大きな頭から垂れ下がるしなびた髪は見覚えがある。
「おーい小雨!」
大きな頭部が振り向く。
「ん? ワタシの名前を呼んだのは誰だ?」
太い首が傾げられる。
まるで俺の存在に気付いていない反応。いつぞやに見た仕草だ。
そうか、この時間軸の小雨は俺のことを知らないのか。ってことは、白菊さんは今も独りで妖怪から逃げてるわけか。
小雨ではあのモアイに勝てない。面倒だけど、もう一度俺があいつを祓わないといけない。
助言しようかと思って口を開き、再度口を閉じる。
白菊さんと小雨のわだかまりは自然に解消される。下手に介入すると、二人の関係修復がうまくいかなくなる可能性もある。今は放っておくのがベストだ。
「近々白菊さんの部屋で世話になるから、その時はよろしくなー!」
「はぁっ?」
戸惑いの声を背中で受けて学校へ向かう。藍色に染まりかけた空の下を疾走し、壁の上に飛び乗って校舎の敷地内に侵入する。
神隠しが起きるのは中学校舎の音楽室。音楽の授業中に忘れたノートを取りに、女子生徒が一人踏み入る。それ以来消息をつかめなくなる。
昇降口では友人が待っていた。本来なら戻らない友人を心配するか腹を立てるところだが、その友人は神隠しによる作用を受けて誰を待っていたのか忘れる。
神隠しの影響は他の人にも広まり、対象となった生徒はいなかった者として扱われる。神隠しが騒ぎにならないのはそれが理由だ。
下手をすると、俺もその現象に巻き込まれるかもしれない。神隠しを認識できなくなったら、俺がこの時間に戻った意味がなくなる。
タイミングは逃せない。教師が俺を見て驚愕の声を上げるものの、構ってはいられない。無視して四本の脚で廊下を駆ける。
背後から近付く靴音を聞いて、階段を上る途中で身を投げる。浮遊感を経て下の段差に着地する。猫は高い所から下りても大丈夫なのだ。可愛くて凄い、最強なのである!
俺は階段を下り、廊下を横断して再び段差に足を掛ける。一度に複数段を駆け上がって五階の廊下を踏みしめる。
透視魔法で目を光らせ、ドアの向こう側を視認する。
人影がないことを確認してから魔法でドアを開け閉めし、身を隠す場所と視線を通すためのスペースを確保する。
魔力を練り練りして時を待つ。
オレンジが夜天に浸食されかけた頃、右方から靴音が近付いてきた。
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