第4話

 靴裏で地面を踏み鳴らす内に、見知った建物が見えてきた。瓦の屋根、白い外壁。懐かしき俺の自宅だ。


 靴裏が地面に貼り付く。

 郷愁があった。ぼーっとしていたことに気付いて、再び足を前に出す。

 玄関のドアに腕を伸ばす。空間固定されているかのように取っ手が固い。鍵が閉まっているのだろうか。


 人差し指の先端に魔力を集め、鍵穴をちょいと突く。カチャっと軽快な音を聞いて腕を引く。久しぶりの玄関を踏みしめる。

 

「あら、お帰りなさい。風邪って聞いてるけど大丈夫?」


 風邪? 早退したことなんてなかったけど、風邪なんて引いたことあったっけ。

 ああ、たぶんクロノスの影響だ。猫田餅成という人物が二人いると世界に不都合が起こる。

 本来俺は学校にいるはずだった。俺が自宅の玄関にいることは矛盾する。時間遡行の過程で事象が改変されたと考えるべきか。

 

「大丈夫だよ。それより母さん、この前めまいがするって言ってたよね? 先日は手が痺れたとも言ってた。全部脳出血の前兆らしいんだ。すぐ病院に行って検査を受けてきてよ」

「あらそうなの? でも今から仕事だし、仕事が終わってから行くわ」


 母さんはキャリアウーマンとして働いていた。失踪した父の代わりに、俺と妹を育ててきたシングルマザーだ。独りで二人の子供を養う。それがどれだけ大変なことか、今の俺ならよく分かる。そう簡単に仕事を休めないのも分かる。


 でも駄目だ。症状は体のSOS。どこかに異常があるから異変が起こる。体の限界は個人の都合を待ってくれない。

 事実、時間を巻き戻す前の母は倒れた。そのまま体に麻痺が残って介護生活だ。


 俺はそれを阻止するためにここにいる。


「ごめん、仕事先に母さんは休むって連絡しちゃった」


 嘘だけど。後で連絡するから嘘とも言えないけど。

 母が目を見張る。


「はぁ⁉ ちょっと何してるの⁉」

「後で謝るよ。さ、病院行って」

「あんたねぇ、仮病だってばれたらどうなるか分かってるの?」

「分かってるよ。でも俺たちには母さんしかいないんだ。もっと体を大事にしてよ」


 演技のつもりだったのに、声に真剣味が混じった。

 この日は人生のターニングポイントだった。この日に戻れたらどんなにかと、ずっと後悔してきた。

 その悔いが俺の声に説得力を持たせたのか、母が一転して表情を変える。


「分かった、病院行ってくるわよ。熱は大丈夫なのね?」

「ああ。適当に寝てれば直ると思う」

「そう。じゃあ私は病院行ってくるから、ゲームせずに寝てるのよ?」

「はーい」

 

 気のない返事に嘆息を返された。母が身支度を整えて玄関を後にする。


 これで母は救われる。緊急入院することになると思うけど、いない間は俺が妹の面倒を見ればいい。伊達に長年介護してきたわけじゃない。掃除洗濯何でもござれだ。


「さーて、何しよっかなーっ!」


 こんなに元気なんだ。真っ昼間から寝るのはもったいない。俺は身をひるがえして階段に足を掛ける。


 自室の床を踏みしめて自室のドアを開ける。木製の棚、勉強机と椅子。何とも言えない郷愁が湧き上がる。

 

 部屋を見渡して勉強椅子に腰を下ろす。魔法で声を母に寄せ、仕事先に電話を掛けてやるべきことを済ませた。


 連絡は終わった。次いでやることが思い付かず、問題集の背表紙に腕を伸ばす。


 俺は長い間異世界にいた。日本語が不自由になっていると、来るべき学校生活に支障をきたす。今の内に感覚を取り戻しておかなければ。


 懸念していたけど杞憂に終わった。何だっけこれ? といった疑問も、すぐに見知った言語に置き換えられる。


 初めて小屋に踏み入った時は、よく分からない文字が日本語に翻訳された。

 今は日本語がグランアースで用いられる言語に置き換わる。自分がもう異世界人寄りなのだと自覚して、何とも言えない寂寥感に駆られる。


 問題集のページを視線でなぞる。

 気付けば一時間が経っていた。理解できると、何だかんだ勉強は楽しいものだ。


 足音が聞こえた。

 近付いてくる。母さんが帰って来たにしては早すぎる。妹も学校の時間だ。早退して帰宅したのだろうか。


 念のため椅子から腰を上げ、空き巣の可能性を考慮してドアを見つめる。

 ドアが開き、廊下の光景が視界に飛び込む。


「……え」

 

 俺は目を見開く。

 廊下の床には、目を丸くした俺が立っていた。


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