第3話
古びたドアが開く。濃厚な土と樹木の匂いにほこり臭さが混じる。
俺は夜目を聞かせて小部屋を視認する。心なしか、小部屋が広くなった気がする。
階段を駆け上る。やたらと高いドアノブに飛び付き、玄関のドアを開けて廃れた部屋を後にする。
雲一つない蒼穹が広がった。
衝動に任せて腕を掲げる。
「俺は、戻ってきたあああああああああッ!」
久しぶりの地球! 空気が美味い! グランアースも空気が澄んでいたけど、やっぱり故郷の味はいいものだ。
しかし全てがでかいなぁ。俺がいない間に一体何が起きたんだ?
まあどうでもいいか。これから世界の時間を巻き戻すんだし。
「では早速……」
腕を交差させ、体の内に秘めた力を意識する。時を操る魔法『クロノス』。
葉の擦れる音がぴたっと止まる。体をあおぐ風も
その動きが、止まる。
「待て」
強烈な圧力を感じて空を仰ぐ。
六枚の翼が開いていた。金色に黒い羽が伸びている。神々しさと禍々しさを帯びた甲冑がコンクリートに降り立つ。
俺は目をぱちくりさせる。
「何だそのコスプレ。面白いな!」
「ブタ風情が無礼な。私は時の管理者だ。時を
いきなり現れて何言ってんだこいつ。
しかしそれなりに特殊な存在のようだ。クロノスで逆行する世界を制止させた上に、魔法の影響を受けずにしゃべっている。地球にもこんな奴がいたんだなぁ。
ともあれ、裁きと言う以上は敵と見て間違いない。クロノスを中断して腰を落とす。
「報いを受けよ!」
風が逆巻いた。制止した世界の中で葉が擦れて土ぼこりが噴き上がる。攻撃の予兆。相手の手の内が分からない時は先手必勝だ。
俺は右腕を突き出す。
「くらえいっ!」
変化の魔法。オリハルコンよりも硬い物質を豆腐よりもろくできる。相手にどれほどの力があっても、意識を持たない物に変えてしまえばどうにでもなる。
「むっ」
鼻に砂が入った。
むずがゆい。喉が震える。鼻が空気を欲している。
へっ、へっ……。
「へっくし!」
あ、やっべ。式が乱れた。
眼前の人型が鈍い光を帯びる。
「な、何だこれは?」
金ぴか鎧が自身の手の平を見つめる。
病とせず、眩しい人型が視界から消失した。再び世界が停止する。
「悪いことしちゃったなぁ」
変なタイミングでくしゃみをしたから術式が乱れた。ただの人間に堕とそうとしただけなのに、まさか消えるとは思わなかった。
きっと因果の改変に時間がかかっているんだ。いつか戻って来るだろうし、さっさとこの場を離れるに限る。
俺は再びクロノスを使って時間を巻き戻す。木々が枯れては立ち直り、アパートの外装も多少は新しくなる。
完了。世界は元に戻って……ない。
「何ゆえ?」
何も変わってない。天を衝かんと伸びる大樹も、無駄にでかい道路も、生きとし生ける全てがビッグサイズのままだ。どういうことだ?
「あ、猫ちゃんだ!」
「猫ちゃん?」
誰のことだ? もしや俺が猫田だから?
いやでも、俺のことを猫ちゃんなんて呼ぶ女子は俺の人生に存在しなかった。
誰かと思って、口から心臓が飛び出るかと思った。
でかい。背丈、腕、脚、何から何まででかい! スカートの中が見えそうになってとっさにそっぽを向く。ちらっと見えた形のいい太ももは永久保存しておこう。
しかし綺麗な女の子だ。流れる水を凍らせたように
制服姿の少女が膝をかがめる。でかい腕がぐっと伸びて反射的に一歩後ずさる。
びびってない。俺は断じてびびってないぞ。
「にゃー⁉」
持ち上げられて変な声が口を突いた。何だにゃーって。これでは本当に猫ちゃんになってしまう。
次の瞬間にはやわらかい感触を得た。程よいふくらみが眼前にある。ふわっと香る甘い香りに鼻腔をくすぐられて、喉から震えがほとばしる。
何だこれ⁉ どういう状況⁉ どうして俺はでっかい女子学生に抱きしめられてるんだ⁉
脱しようと思って腕を伸ばす。
少女の腕をうまく握れない。逆に顔をうずめられて、再び変な声が出る。
この子大胆すぎる! 見ず知らずの男性に対して警戒心がなさすぎるぞ! もしやお嬢様か? この世の穢れに触れさせてなるものかと、厳格な父によって徹底的に隔離されてきた温室育ちか?
けしからん。この子のためにも文句を言ってやらねば。
「やっぱりもふもふだぁ~~っ」
ええい、離せ小娘! いつまで人をおもちゃにするつもりだっ! 抱きしめて頬擦りなんて、まるで人を猫みたいに!
……猫?
あ、やっべ。そういや変化の魔法を解くの忘れてた。
今の俺は人間じゃない、猫だ。あっちじゃやたらと動物に怖がられてたから、地球の猫が恋しくなって自分を猫に変えてたんだった。獣がもふらせてくれないなら自分をもふればいいじゃない。この理屈、思い返しても天才だな俺。
しかしそっかぁ。でかいものばかりでおかしいと思ってたけど、俺が猫ならそりゃ大きく見えるわけだ。俺の叫びも、どうせ猫がにゃーにゃーギニャーと鳴いてるようにしか聞こえてないだろう。
合点したところで足が地面に付く。満足したのか、少女が笑顔と手振りを残して立ち去る。
俺は一度アパートに戻る。変化の術を解いて人の姿に戻り、氷の鏡を作って身なりを確認する。
分かってはいたけど素っ裸だ。魔力の糸で適当に衣服を編み、中学生相当の体を覆い隠す。
改めてアパートの部屋を出る。靴裏で地面を踏み鳴らして自宅への道のりを歩む。
色んなことがあった。魔法を覚えて、異世界の人に会って、つまらないいざこざに巻き込まれて追放された。その先で魔物と仲良くなって、皆と一緒に国を立ち上げた。
長かった、楽しかった。地球のことなんて忘れて、王として過ごすのも悪くないと思った。
そういう時は、いつも母や妹の顔を思い出した。地球では母が亡くなり、俺は失踪扱いだ。残された妹の心境を想うと、俺一人幸せになることはためらわれた。
だから俺はここにいる。今日これまでの時間、その全てはこの時のためにあった。
手始めに母を救う。そしてやり直すんだ。俺が失った青春の時間を。
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