#12 せんちひ
璃桜ちゃんにこっぴどくやられたおかげで、おれは、あいこさんの遺言状を開けるという選択肢に手を伸ばした。
遺言状が入っているはずの引き出しを開ける。遺言状は、きちんと引き出しの真ん中に、きっとあるべき姿であろう様子で鎮座していた。それを眺めながら、おれは、あいこさんとの唯一の喧嘩を思い出した。
*
おれは、この引き出しに入っていた遺言状を、破り捨てた。当然、あいこさんは激怒した。
「信じらんない。ねぇ、何考えてるの?あたしがどんな思いで、わざわざ弁護士事務所まで行ってお金かけて、あれ作ったと思ってんの?
君は何のためにここにいるの?あたしをちゃんと看取る気ないなら出てって。」
全く、あいこさんの言う通りだった。それでもおれは、あいこさんが着々と死ぬ準備をして、そして時間も死に向けて進んでいる、この現実を受け入れられなかった。死ぬ準備なんか止めろよ、おれと一緒に生きていくことを、諦めないでくれよ。あいこさんの苦しみを分かっていて、いや、分かったふりをして、そう思っていたんだ。
「最初の約束守ってよ。ただ同棲したくて、君のこと住まわしてる訳じゃないんだけど。」
住まわしてる。これも真理だった。おれは金も入れずここにいる、ただのヒモでしかなく。でも、それを口に出してしまうと、おれたちの関係は、恋人かもしれないという想いは。
あいこさんも、しまった、という顔をしていた。
「ごめん、今のは違った。」
「…違くないよ。たしかに、おれは、ここに住まわしてもらってる男だから。」
刺々しい雰囲気があったわけじゃない。でもおれたちは、3日間口を利かなかった。利けなかった。生活時間がずれていることに感謝した。
4日目の昼、おれは、自分の部屋でダンスの練習をしていた。ダンスに没頭すれば、この重苦しい雰囲気から一時的に解放されるから。
あいこさんの部屋との間のふすまが、すっと開いた。
あいこさんは、おれのベッドに腰掛けて、ただ踊るおれをずっと見ていた。おれも、あいこさんの方を見ず、鏡に映った自分だけを見て踊り続けた。曲が途切れ、雨音だけが、さあぁっとノイズみたいに流れていて、おれは息を切らし、鏡の方を向いていた。
あいこさんが、後ろからおれを抱きしめた。鏡越しに見えるあいこさんの顔には、静かな悲しみが漂っていて。
「君は、すごく、生きてるね。」
ぽつりと言った。おれは胸が苦しくなり、そして、このひとのいのちというものを全身で感じたくなって、向き直ってあいこさんと同じくらいの力で、少しだけ強く抱きしめた。そして、そのままベッドに倒れこんだ。
2週間後、あいこさんは、おれを居間に呼び、ちゃぶ台の上にすっと、新しい遺言状を置いた。
「あの時はごめん。なんの説明もしないで、いきなりあれ見たら、びっくりしたよね。
これ、あたしが死んだら、弁護士事務所に行って開けて。
この家に住むにしても売るにしても、名義は変えなきゃいけないから。」
これは、必要なことなんだ。あいこさんのやっていることはいわゆる“終活”で、それが、人より何十年か早い。
それだけのこと、と言うには重すぎるけど、現実問題、こうするのが最善だし、おれの“後始末をつける”という役割は、まさにこういうことだから。
おにぎりを食べながら、ノリで決めたあの時とは、あいこさんへの気持ちも、積み重ねた生活も、全く重みが違った。
おれは、未だ覚悟はないけれど、改めて役割を引き受けることを承諾した。
*
お盆前の平日、おれは、あいこさんが遺言状を作ってもらった弁護士事務所に行き、弁護士さんと遺言状を開封した。遺言状には、家はおれに相続させること、そして、あいこさんの貯金全額をおれに相続させるということも書かれていた。
おれは、すっかり家のことだけだと思い込んでいた。あいこさんの貯金を相続するなんて、露ほども考えていなかった。
狼狽えるおれに、弁護士さんは
「もう一枚、はいってますよ。」
と、鳥のイラストが入った便箋を渡してきた。
「びっくりさせてごめんね。
でも、受け取ってほしい人、君以外にいなかった。
君の、20代前半(もしかしたら後半?)の貴重な時間を奪って、あの家に縛り付けてしまったこと。
お金で贖えるなんて思ってない。でも、私が君のためにしてあげられることって、もうこれくらいしかないの。
留学、ちゃんと行ってきなよ。私全然ダンス出来ないけど、君の才能が本物だってことだけは分かるから。それなら、生きてる間にお金援助して、送り出せば良かったのにね…。私、わがままだから。
あんまり優しくなくてごめん。なかなか好きって言ってあげられなくてごめん。
私も、君のこと、好きだよ。」
苦しくて、息が出来そうに無くて、でも息出来て。おれなんで今、生きてるんだろ。あいこさん、もういっそ、連れて行って欲しかったよ。
そして、最期の手紙で読めない漢字使わないで。おれが教養ないの知ってんじゃん。
また「めんどくさいから自分で調べて」って言うの?
「おれ、無理です。こんなお金、受け取れない。」
弁護士さんは、うーん、と言ってこう続けた。
「あなたの気持ちも分かりますよ。こうして、予想外の相続をすることになった人は、だいたい戸惑って、相続放棄したがる。でもね、これは弁護士を離れた私の意見ですけど、『故人の遺志』を尊重しても、いいんじゃないですかね。」
故人。そう、あいこさんは紛れもなく故人で、この手の中にあるのは正式な遺言状。おれは、相続人。
「すごく、考えてましたよ。存命中のお母さんに連絡取って、遺留分放棄までしてもらって。
それに、別で手紙まで付いている。そこまでして、あなたに遺したかったということじゃないですか?」
あいこさんは、自分に残された貴重な時間を使って遺言状を書き、おれは上っ面の正義でそれを破り捨て、おれたちの生活の中の、貴重な3日間を無駄にしてしまった。
おれにこれ以上、あいこさんの時間を無駄なものにする権利なんて、ない。
居間で、テレビを観ている。金曜ロードショーの「千と千尋の神隠し」だ。こういうジブリものが放映されると、夏休みなんだなぁという感じがする。
あの時はショックで読み通せなかったけど、あいこさんの手紙には続きがあった。
追伸
千ちひ、観て。
千ちひ。文字にすると分かりづらいけど、声に出したら分かる。千と千尋の神隠しの略称だ。
あいこさんは千ちひが好きだった。
というか、始まって割とすぐの、ハクが追っ手をまく為に振り返って、ふぅっとキラキラした何かを吹きかけるシーン。あれが異様に好きだった。
喧嘩して、そして仲直りしたあの日も、千ちひが放映されていた。
「あ、来る来る来る見て見て見て。
………っあー!!ハク様ー!!!美しいー!!!作画もスピードの緩急も全てが完璧ぃー!!駿の方角向いて圧倒的感謝!!」
うるさくてしばらく何も聞こえなかった。
「全ての女子中学生は必ずハク様を通ってっから。」
とも言ってたかな。
そのしばらく後、おれと、一気に冷静になったあいこさんは、千尋が湯婆婆に名前を奪われるシーンを見ていた。
「ここさぁ、名前奪われるって、一旦死ぬって事なのかな。」
おれは、さぁ、と生返事をした。
「あたしが死んだらさ、君に名前を遺すよ。」
また死ぬ話…。
名前を遺すって、名義のこと?でも名義変えたら、名前遺すっていうか消えるんだけど。
あいこさんの言わんとすることはよく分からず、ぼーっと千ちひを観ていた。
あの時と同じように、観るともなく観ていて、例の、名前を奪われるシーンになった。
「荻野千尋」から、荻・野・尋が浮き出て、千になる。
あ、と思った。
あいこさんは、「ハク様に忠誠を誓う」とか何とか言って、割と頻繁に放映される千ちひのDVDを持っていた。
あいこさんには、おれがどんなタイミングで遺言状を開けるかも、そして自分がいつ死ぬかも分からない。だから、千ちひを観るなら、テレビじゃなくてDVDなんじゃないか。
おれは、あいこさんの本棚の、CDがある辺りを見た。沢山のLOVE&※のCDの間に、千ちひのDVDがあった。
ケースを開けると、縦書きで、「渡瀬愛子」と書かれた紙が入っていた。
荻野千尋方式で名前を奪われたら、そこに遺るのは、"愛"。
たぶんだけど、あいこさんは、おれに、愛も遺そうとしてたんだ。
あいこさん…。
これ、ちっと、だせぇわ。
ごめんねこんなこと思っちゃって。
でもなんか、女子中学生が一生懸命考えたっぽさがあって、ださくて、可愛い。
ハク様大好きな、田舎を飛び出したくて必死だった女子中学生のあいこちゃんは、28歳のあいこさんの中で息づいていた。
おれは、紙がくちゃくちゃにならないよう、そっと両手に挟んで、温めた。
祈りのポーズみたいに見えるけど、おれ、そんなことしない。ただあなたたちを、ぎゅと、抱きしめてあげたいだけ、それだけなんだ。
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