#9 強い気持ち・強い愛

 夜からの仕事に行くために、家を出る。もうずいぶん日が長くなって、18時でも全然明るい。車に乗り込むと、むわ、と暖気に包まれ、冷房が効いてくるまで窓を開けた。

 あの家で、おれは度々自然というものに直面し圧倒される。太陽の動きも、庭木の茂りも、人の死も、人の死を悲しむことも、少しずつ悲しみと仲良くなることも。 そしてもうひとつ、おれは、重大な「自然の摂理」に直面している。



 おれは今、とても、心の底から、セックスがしたい。


 当たり前だろ。 あいこさんが死んで4ヶ月は経ってるし、そもそもあいこさんも結構淡白だからそんなに充実してた訳でもなく。

 圧倒的あいこさん愛という心理的な束縛、そして何もない田舎という物理的な束縛で大人しくしてたけど、おれはもうすぐ23になろうかという若者で、さらに言えばだらしない。今までよく頑張ったと思う。けど、もう、頑張れないんだ。


 あいこさん、おれは今夜、家には帰りません。


 カーステレオから、でんぱ組.incの歌う「強い気持ち・強い愛」が流れる。渋谷系もアイドルも好きなおれとあいこさんは、オザケンの名曲をカバーした、でんぱ組版「強い気持ち・強い愛」を気に入ってよく聞いていた。


「オザケンはさぁ、人は死ぬっていう圧倒的な真理を知って、それでも、今日の幸せをPOPに歌い上げるじゃん。そういう所があたしは好きなんだよね。」


 あいこさんが、知った風なこと言ってたな。ちょいとうるせぇ。


   “Stand up, ダンスをしたいのは誰?”(はーい!)

         でんぱ組.inc「強い気持ち・強い愛」


 はーい、おれもです! 強い愛を、一旦家に置いて、今日絶対にセックスをするという強い気持ちでおれは、市街地に向けて車を走らせた。


 仕事が終わった後、飲み屋街に繰り出した。しかし、2年近く“現役”を退いていたから、どうやって女の子やお姉さんと出会っていたか分からない。なんか、気づいたらそうなってたなぁっていう記憶しか無くて、おれは何とだらしない男なのかと、改めて自覚した。

 この街に、路上で逆ナンしてくれるガッツのある女性はいるのかなぁ、いないかもなぁ。

 じゃ、おれがナンパするの?えー…嫌だ。上手くいくにしても何か嫌だ、ナンパしてるおれを俯瞰で見るおれが出てきそう。

 こういう時のために、人はマッチングアプリというものを使うのか。でも、おれは、今日セックスをするという強い気持ちを持ってしまった訳で、今更アプリダウンロードしてアカウント作って写真撮って登録して…ってやってたら夜が明けそう。


 なんか、安易だけど、とりあえずBARでも行っとく?もう全てオザケンとでんぱ組に侵食されるけど、”屋根を走る仔猫のように”、おれは”夜をブラつき歩いてた”。


木の実このみ」というBARが目に付いた。

 ドアの持ち手が艶のある、流木みたいな形で、金の筆文字で書かれた店名も洗練されてる感じで、ここなら1人客がゆったり飲めそうと思ってドアを引いた。


 BARのママは、この店を開く前は中学教師をしてたらしく、堅い職業の人らしい品の良さと、多感な生徒を相手にしてきた人の包容力があった。

 居心地いいけど、逆ナンしたい人来なさそー、と少しだけ後悔した。


「今日、何かあったの?」

「え、何でですか?」

「肩と顔、力入ってる。」

 婉曲的に、アンタギラついてるよと言われた。

「あー…ちょっと前に彼女と別れたんですけど、元カノ、実は二股してたみたいで。 ヤケ酒でもしようかなって、久々街来ました」

「お兄さんイケメンなのにね!元カノやるねぇ。」

 カウンターの角で飲んでたおじさんが、急に話に割り込んできた。おじさんはママの旦那さんらしく、市街地中心部のこの辺りに何軒か物件を持っているという、まぁちょっとした不動産王だった。ママの鷹揚な感じにも改めて納得した。


「りおちゃんどう、この人今彼女募集中だよ!」

 あんまりデリカシーない不動産王は、カウンターの中の女性バーテンダー、と言うには少し幼い女の子に声を掛けた。

おれは、

「あ、違います。彼女とか面倒なことになりたくなくて、とりあえず今日セックスしてくれる人募集中です。」

という、この場を凍らせる魔法の呪文を唱えたくなったが、一応大人なので抑えた。


 実際今のおれに彼女ができたとして、端々にあいこさんとの違いを感じ、

「あたしのこと本当に好きなの?」「あたしってあなたの何なの?」と言われて早々に破局するのは目に見えてる。


「いや、私はそんな…全然、私にはもったいないですよ…。」

 20代後半のあいこさんの落ち着いた声とは違って、少し高くて、気取った表現になるけど”澄んだ声”そのものだなぁと思い、早速彼女でもない女の子をあいこさんと比較している自分に気づいた。

「りおさん?は、普段は何してる人なんですか?大学生とか?」

「あ…S大で、医学部通ってます。」

 おお、優秀なお嬢さんだった。ダメ大学生だったおれとは全然違う。

「そうなんだ、何年?」りおちゃんは3年生だった。ということは、19,20,21、「21歳か。」

「いえ…私、浪人も留年もしてるから、23なんです。」

「あ、じゃおれと一緒だ。若く見える。」

 私、子供っぽくて、いっつもだいぶ下に見られちゃうんです…と言われ、お姉さん向けの褒め方をしてしまったことを後悔した。いや、お姉さんに

「若く見えるって、実年齢若くないって思ってんのね。」

と叱られたことあったわ。これ今後言うのやめよ。


「医学部って、入学も卒業もストレートな方が珍しいわよ。」

 ママが取り成す。でもりおちゃんは、私真面目なくせに要領悪くて、講義いっつも一番前で聴いてるのに単位落としちゃうし…と自分下げモードは止まらない。

「りおちゃん、おれ、私立の大したことない大学なのに単位落としまくって、教授に菓子折り持って土下座して単位貰ったのに、結局自分がやる気なくて中退だからね!もっと下見よ。下でおれが手振ってるから。やっほーっつって。」

 軽薄スイッチをオンにしたら、やっとりおちゃんは笑ってくれた。


 真面目なのになんか報われない。またしてもあいこさんと重ねてしまう。 あいこさんも必死で英語に打ち込んだけど、帰国子女や幼稚園からインターに通ってた人には敵わなかった。でも、あいこさんは磨いた英語力と、自分を高めるために努力できる才能を武器にして、大企業でバリバリ働いてた。

 りおちゃんの、医師になるための道は、言葉悪いけどそういう”ツブシ”が効かないから、よりしんどいだろうなぁと思った。


 からん、とドアベルが鳴り、一人の女性が入ってきた。

「あーもーめっちゃ疲れたー。あ、おじちゃんいるぅー。」

 常連さんらしい。ママがおしぼりを渡しながらゆったりと話しかける。

「仕事、大変なの。」

「そーもーみんなあたしにやらせればいいとおもってっから。

 え、何何イケメン居るじゃん。若。」

「この子彼女募集中!」

 不動産王がまたしても偽りアリの看板を立てる。でも、申し訳ないけどこの人、たぶんすぐやれそう。案の定となりに座ってきて、いくつー、こっちの人?と話しかけてくる。

 おれもちゃんと、スイッチ切り替える。

 さっきまで同い年として朗らかに喋ってたおれがギラつき始めて、りおちゃんは引いているだろう。そうそう、おれはこんなやつですよ。ていうか人間ってこうなの。りおちゃんはすこし困惑したような笑顔で、グラスを拭いていた。


 朝、おれは洗面台で髭を剃り、髪を直して、ユイさん、と声を掛ける。 もちろん、ユイさんは昨日のBARの人。漢字?歳?知らん。

「おれ、もう行くから。これ、ホテル代置いとくね。」

「え、早くない?ねぇLINE交換しようよ。」

「あー、そういうんじゃないんだよね…」

「あそ、じゃ。BARで会ったらまた飲も。」

 ユイさん、話が早くて助かります。その一言があれば、BARで遭遇しても気まずくない。


 寝不足のせいか、仕出し屋でうっかりミスをした。冷蔵庫にいれるべきおかずを、冷凍庫に入れていた。10分ぐらいだったので何とかなったが、主任に頭を下げて謝った。「まーいいから、次から気をつけてよ。」 あっさりとそう言ってくれた。


 家に向かう車の中で、おれは、自分はずっと許される側だったなぁと思った。さっきのミスにしてもそうだし、単位のために土下座するとか、浮気して泣かれても許してもらえたりとか。

 でも、あいこさんを失ってから、「赦す」ということを知った。

 おれと亮介さん、2人の男を振り回したあいこさんを赦す。そして何より、自分を赦す。りおちゃんの前で急にギラついて困惑させることも、ユイさんをあっさりホテルに置いてったことも。おれはおれの行動を選ぶ権利があり、そしてその行動を赦す権利がある。大人同士の出来事で、かすかな棘はあっても、了解あってのことだし。


 果たして、あいこさんは自分を赦すことが出来ただろうか。誰しもがいつ来るか分からない、でも他の人よりは近くにある「死」に直面して、遺言状なんか作って受け入れた風してたけど。結局、はがきとか同居とかトリッキーな手段でカモフラージュして、おれと亮介さんの優しさにすがりたかっただろうことを。

 自分のそういう弱さを、赦して死んでいっただろうか。

 あいこさん、オザケンだって、きっとナイフを向けられたら命乞いをするし、余命を告げられたらうろたえるだろうって、おれは思うよ。オザケンもおれもあいこさんも、みんな人間だからさ。


 弱くてずるいあなたを一層愛おしく感じながらも、おれは、りおちゃんを困惑させてしまったことが気にかかり、罪悪感を覚えている。あいこさん、こんなおれを許してほしいんだ。

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