#8 ナモクローホーガン

 朝五時半。

 今、おれは、いつも通りバイト先の仕出し屋で、何食わぬ顔で働いている。しかし、このキャップの中の髪は寝ぐせだらけで、マスクの下にはうっすらと髭が生えている。

 ギリギリまでホテルで寝てて、慌てて出勤してきたからだ。


 もちろん、一人でホテルで寝る訳もなく。

 焼き肉屋を出た後、おれは昨日出会ったばかりの人とホテルに入り、寝た。しかも、朝その人を置いて、ホテル代すら払わずに出て、今ここに居る。

 最低でしょ?あいこさん。

 あいこさんと居たから、しかもあんな田舎に居たからおれは品行方正で居られたけど、ちょっと傷ついただけで最低になれるんだよ。あいこさんには、こんな最低で最悪な男がお似合いなんだよ。

 だからずっと、一緒に最低で居られたらよかったのに。

 マスクの下で、口元だけで笑った。



「どうする、肉追加する?」

 亮介さんは聞いてくれたけど、おれも流石に肉ばっかりは食べ続けられない。

「あー、肉もういいかな……ちょっと、タイミング微妙ですけど、これいいですか?」

 亮介さんがチャイムを押して、店員さんを呼んだ。

「ほうれん草のナムル、ひとつ。」

「あーすみません、それ終わっちゃったんですよ。」

「だって。どうする?」

「あ、じゃナムル盛り合わせの方で…。」


 店員さんが出ていったあと、おれは自然とつぶやいていた。


「「 ナモクローホーガン 」」


 ん?

 え?

 謎の呪文がハモってしまった亮介さんとおれは、顔を見合わせた。

 そして、爆笑した。


 おれが「ナモクローホーガン」を初めて聞いたのは、あいこさんちに引っ越してすぐの頃だった。おれは気まぐれに、豚バラ肉のブロックを買ってきて、角煮を作ってみた。

「…あいこさん、ちょっといい?」

仕事中のあいこさんが、ん?と振り返る。

「どうしよ、やばいのできちゃった。角煮、めちゃくちゃ旨い。端っこだけ食べたけど、超おいしい。」

 え、うそうそあたしも食べたい、と言うあいこさんに、肉の欠片をあーんした。

「あ、これすごい。超最高。天才。君は料理の天才だった。全力感謝神の恵み。」

 あいこさんがこんなに言葉を尽くしておれを褒めてくれている…並べた語彙はすごく安直だけど、嬉しすぎる。

 ちょっと早いけど、もう待ってられないからおれたちは晩御飯の準備を始めた。

 あいこさんは冷蔵庫を開けた。チンゲン菜添えたいよねせっかくだし。と言って。

そして中を覗き、


「あー、食べきっちゃってた残念。

 ナモクローホーガン、ってな。」




「ナモクローホーガンってアレですよね、ほうれん草とかチンゲン菜とか、青い葉物ない時に言うやつ!」

「あいつまだ使ってたんだあれ!」

「亮介さんの頃から言ってるなら十年選手っすね。」

 ひとしきり爆笑した後、亮介さんが声を落とした。


「あれさ…分かった?」

「いや全然分かんないっす。説明されたしwikiも見たけどよく分かんなくて。」

「や、だよねー!俺もわっかんなくて!!」


 あいこさんの説明では、落語の「青菜」という噺から来た言葉で、”名も九郎判官”と書くらしい。なんか源義経がどうたらとか言ってたけど、おれにはさっぱりで。

「もうめんどくさいから自分で調べて。」

と突き放されていた。


「よかった、亮介さんでも分かんないんだ。」

「俺帰国子女だからさ、日本史ダメなんだよなー。」

 帰国子女の亮介さんに対して、田舎で必死に英語の勉強をしていたあいこさんはどんな感情を抱いていたんだろう、と少し切なくなった。

「でさ、最後『自分で調べて』って言われなかった?」

「そうですそうです。正直、調べても分かんないレベルの言葉、日常生活で使わないで 欲しいって言うか…。」

「分かる。あいつそういうめんどくさいとこあんだよな。」

「おれ、ハルクホーガンの弟かなぐらいに思ってました。」

「ハルクホーガンめっちゃいいな!愛子に聞かせてやりてー。」


 ナモクローホーガンという謎の呪文は、おれと亮介さんの心の距離を一気に縮めた。

「いいなこれ。愛子の愚痴楽しいな。この後さ、時間大丈夫?一軒行かない?」

「あー、めっちゃ行きたいけどおれ明日5時半出勤なんで…」

 じゃあ俺今日ホテル取ってるから、そこで飲もうよ、酒とつまみ買い込んでさ、という亮介さんの勢いに押され、おれたちはコンビニでどっさり買い込んで亮介さんの泊まる部屋にこっそり入った。


 そこから、ナモクローホーガン族しか知らない、あいこさんの愚痴大会が始まった。

「カレー作っとくわ、とか言ってたのに、帰ったら肉じゃがになってたりするよな。」

「そう全然作ってもらえるだけでありがたいんだけど、そこはすごく感謝してるんですけど、カレーから肉じゃがへのトランスフォーム結構戸惑う。」

「あとさあ、自分で映画観たいっつって一緒にネトフリ観始めてさ…。」

「あっあっあっ分かる!『ごめん眠いし何かつまんないから先寝るわ~』ていうやつ!!あれ困る!」

「『続き観たかったら観てていいよ』ってさ、愛子発信なのにそれはねぇだろって な。」


 あいこさんあるあるがどんどん出てくる。

「あと、寝てる時どんどん布団奪ってく…」

と亮介さんが言ったとき、おれは、(あっ、一緒に寝てたんだ…)と、分かり切ってることなのにちょっと嫉妬してしまった。

「え、ちょ、ここで嫉妬はないでしょ!お互い様でしょ!」

 ごもっともです。おれはすいませんすいませんと言って缶のハイボールを飲み、むせた。亮介さんは腹抱えて笑ってた。


 なんか、俺が言うのはあれだけどさ、と前置きして亮介さんは、落ち着いたトーンで話し始めた。

「君のそういう、嫉妬したりすぐ顔に出ちゃう感じをさ、愛子はすごいかわいいって思ってたんじゃないかな。

かわいいとか言われるの嫌かもしんないけど、愛おしいっていうか。

愛子結構お姉さんぶりたいとこあったし。」

 そうか、そうなのかな。おれは自分のことかわいいと思ったことは全然ないけど、おれよりずっと長く一緒にいた亮介さんが言うなら、そうかもしれない。

「…亮介さんの、そういう面倒見良くて包容力ある感じも、あいこさん好きだったと思いますよ。しっかりしてる風で、結構子供っぽいじゃないですかあいこさんは。」

 あいこさん、ほんとおれと全然違う人好きだったんじゃん。欲張りな女。


「俺の知る限りでは、愛子は俺と君としか付き合ってないから、ナモクローホーガン族は俺達二人だけだね。」

「そうっすね…おれなんか、亮介さんとは、兄弟みたいだなぁって…。」

「待って、兄弟はマジだからダメだって!」

 図らずも下ネタみたいになってて、おれたちはまた爆笑した。



 散々笑ったあと、亮介さんは床で寝入ってしまった。意外とすぐ酔っぱらっちゃうタイプだった。亮介さんの取った部屋で申し訳ないけど、おれはベッドで寝させてもらった。そして、5時ごろ飛び起きて、亮介さんを揺り起こしてホテル代と酒代を払おうとしたが、固辞されて、そして今、仕出し屋にいる。

 ごめんねあいこさん。あなたが振り回した男たちは、あいこさんあるあるをつまみに盛り上がってしまったよ。最低でしょ。おれもあいこさんも、亮介さんも最低。これでおあいこ…と言うには、おれと亮介さんは足りないくらいだけど、おあいこにしてあげる。


 バイトのあと、亮介さんからLINEが来てた。


「昨日ありがと!

 あんな泣いたのに最後、めちゃくちゃ

 楽しかったわ。来てよかった!

 大阪来るときあったら声かけてよ。

 また飲もう!

 俺らも、愛子を越えるぐらいの彼女

 作って見返してやろうな(笑)」


 ポジティブでタフな亮介さんは、もう最低じゃなくなって、魂のランクを上げている。亮介さんゴメン、おれはまだ、「ライバル減ったなぁ」って思っちゃう。

 あいこさんには、亮介さんよりおれの方がお似合いだから。絶対。


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