#5 庭木

布団からは、もうあいこさんの匂いはしない。「洗ってない布団」そのものの、タンパク質の匂いで、それが尚更、あいこさんが存在していたという事を証明していた。


 以前あいこさんは、「フトン」という小説の話をしていた。作者名は聞いたけど忘れてしまった。

「おっさんが若い娘に振られて、泣きながらその娘の布団の匂いを嗅ぐ話」という情緒も何もない要約をしたあと、あいこさんは

「すっごい情けない話だけど、自分の情けなさをちゃんと私小説としてエンタメ化してて面白いから好きなんだ。多分サービス精神ある人なんだよ。」

と言っていた。


 おれは、そのおっさんよろしく、あいこさんの布団で泣きながら寝た。サービス精神なんてないし、文才もないから、おれの情けなさは文学にはならない。

 そしてそれ以来、おれの涙腺と後悔と思い出は開栓され、溢れっぱなしになっている。あいこさんが死んですぐは、慌ただしさと疑いようのない非日常の中で蓋をされていたものが、日常という余白の中では閉じ込めていられなくなったんだろう。


 電子レンジでおかずを温めるとき、あいこさんはたまに、ダンスとも揺れともつかない変な踊りをふんふんふん…としていることがあって。そういう時おれは静かに横に行き、その動きを何倍もアップデートしてひとしきり踊る。

 するとあいこさんは

「うざ。」

と言って笑いながら肩パンしてくる。

 その流れがおれは好きで、よくやっていた。レンジを見る度、思い出す。レンジなんか毎日使うから、日に1回は必ず泣いている。

 そんなことが、この家の家具家電すべてに対して起きる。この家のすべてにあいこさんがいて、でもあいこさんはこの家にはいない。どういうことなんだ。


 きっと、この家を出るべきなんだろうし、あいこさんは残されたおれがこの家の始末を付けられるよう、準備してくれていた。わざわざ遺言状を作っていた。あたしが死んだら弁護士さんとこに持って行って開けな、って。

 おれはまだ、開けられていない。遺言状どころか、それがしまってある引き出しすら開けられない。

 家を出る、出ないという選択ができるようになったとき、おれがどうなるかが怖くて、おれは自分がここから出られないようにしているんだ。


 せめて、家という空間からだけでも逃れよう、と思って、縁側に腰掛けて庭を眺める。定期的に庭師さんを呼んでいたあいこさんがいなくなって、庭木は大分樹形が崩れていた。

 この家に来て初めて、おれは「植物は春になると芽吹く」ということを知った。もちろん知識としては知っていたけど、本当に気温が上がってくると、スイッチを押したように一斉に芽を出し葉を茂らせる庭木や花に感動した。

 死んだあいこさんと、死んだみたいに生きてるおれをよそに、この庭はものすごい生命力で形を崩そうとしている。この家にまだ残るのなら、せめて剪定をしなければ。


「あらぁ、渡瀬さんちならずっと吉田造園さんに頼んでたわよぉ。」

バイト先の仕出し屋でパートのおばちゃんに、庭師さん知らないっすか?剪定お願いしたくて、と聞いたら、あっさりこう返された。

 なんでおれの住んでる家について、おれより詳しいんだ。

 でもこの地域の人はみんなそうだ。


 おれの住んでる家もといあいこさんの家は、S市内と言いつつ市町村合併で吸収された、旧Y町にあって、ここはほぼ集落と言っていいくらいの田舎だ。だから、Y地区の渡瀬と言ったら完全に特定されてしまう。

 初めてこの仕出し屋に来た時もそうだった。



 20代の男が、しかも住所が東京の奴が突然バイトに応募してくるなんて相当珍しかったらしく、初日から勤務後はおばちゃんに囲まれて質問攻めだった。Y地区に住んでる、というと

「えー、なんであそこにわざわざ東京から来たのぉ?」

とびっくりされたので、馬鹿正直に

「あ、彼女のとこに住もうと…」

と言った瞬間、別のおばちゃんたちが騒ぎ始めた。

「Y地区なら渡瀬さんとこの愛子ちゃんだ!うちの息子高校で一緒だったのよ。」

「あそうなのぉ愛子ちゃんとこねぇ。愛子ちゃんすごいわねいきなりこんな若い子彼氏

 にしちゃって。」

「昔っから真面目で頭いい子だったけど、意外ねぇー。」

 真面目で頭いい子はおれみたいなのとは住まないのか。まぁ、そうかも。とにかく、面倒なことになってしまったし、あいこさんに申し訳なくて、家に帰るなり平謝りした。


「いいんじゃない別に。何も間違ってないよ。あたしは、急にこんな若い子を家に引き込んだ愛子ちゃんだよ。」

 おれらの意志と関係なく、おれらの状況は言葉にするとなんとも言えない湿気た雰囲気を帯びてしまう。話を逸らしたくて、

「でもあいこさん、みんな頭良くて真面目で…って褒めてたよ。有名人じゃん。」

と茶化してみた。あいこさんは少し黙って、

「それは、あたしが頭良くて真面目で、かわいそうな渡瀬さんちの愛子ちゃん、だからだよ。」

と言った。


 あいこさんはこの家で、高校卒業するまでおばあちゃんと住んでいたらしい。でもあたしおばあちゃんキライだったんだ、という言葉に、おばあちゃん子のおれは軽く衝撃を受けたけど、

「そうなんだ…」

と言うしかなかった。


「この家出て、なるべく遠くで生きていきたかった。遠くに行くには英語できなきゃって、子供の頭で考えたの。小学生の頃は図書館で、ハリー・ポッターとかの原書を辞書引きながら読んで、中学3年のときはクラスメートのお姉ちゃんに頼み込んで、大学の英語ディベートサークルに混ぜてもらったり、お金かからないことで、やれること何でもやった。

親のいない子が必死になってるから、みんな目についたんだろうね」

 高校・大学でも留学制度をフル活用して、TOEICも TOEFLも、履歴書に胸張って書けるようなスコアにはなったらしい。

「でも、帰国子女やずっとインターに通ってた子たちには全然太刀打ちできないの。

 英語一本で生きていくのはあたしには無理なんだって、大学でやっと悟ったね」


 それでもあいこさんは、おれでも、この町の高校生ですら知ってるような会社に就職した。

「やっと、あたしはかわいそうな愛子ちゃん、かわいそうな渡瀬さんじゃなくなった、って思ってた。」


 病気の影響で、あいこさんは一度会社で派手に倒れたことがあった。救急車で搬送され、さすがに会社中に知れ渡った。

「あたしはまた、かわいそうな渡瀬さんになったの。みんなが、何も言ってないのに励ましてくる。こんなことに負けるなよ、とか言ってくる。

 結局どこ行ってもかわいそうなんだったら、せめて『かわいそうだから優しくしよう』で済む田舎に戻ってきたわけ。都会の人は病人にもガッツ求めてくるからめんどいわ。」

と言って笑ってた。



 吉田造園さんに来てもらった。

 庭師さんの仕事をボーっと眺めてたけど、おれは、こういうときはお茶とかお茶菓子を用意するもんなんじゃないか?と突然気づいてしまった。うわ、どうしよう。お茶は出せてもお茶菓子なんて用意してないし。

 何かないか戸棚を探ってみたら、とらやの羊羹が一本出てきた。

 あいこさんはとらやの羊羹が好きで、

「こんな美味しい物を詫び菓子の定番にすんな。」

とよく言っていた。最強の非常食、とも。

 小型羊羹だってあるのに、この断面が好きなの、と言って普通サイズを開けては、おれを数日羊羹攻めにした。2人で食べきるには多すぎるんだ。

 最強の非常食なだけあって、まだ賞味期限内だし、最強のお茶菓子だ。あいこさんいつもありがとうございます…。


 庭師さんに、熱くて濃いお茶と羊羹を出した。

「いただきます…これ、愛子ちゃんのだろ。よく出してくれてたよ。愛子ちゃんあんなことになって、あんたもかわいそうだね。」

 おれも、恋人に先立たれたかわいそうな男になってた。間違っていないし、あいさつ程度なもんだろうけど、これをずっと言われ続けるのは、面倒だっただろうな、と思った。


「ありがとうございました、庭、荒れててすいません。おれ全然庭木分かんないから、何もしてなくて。」

「いいのいいの、分かんないなら任せてくれたらいいから。あのね、こっちが困るの

 が、分かんないのに分かったふりして剪定する人ね。あれが一番木を傷めるから。」


 思い出した。

 あいこさんとの「かわいそうな愛子ちゃん」話はまだ続きがあった。


「君はさ、あたしが病気の話初めてしたときも、今も、『そうなんだ』としか言わないね。」

 グサッと来た。でも、ああいう時なんて言っていいか分からないし、おれが何を言ってもどうしようもない気がしてしまう。

「違うよ。それがいいんだよ。分かったフリして励ましたり、同情しない。あたしは君のそういうとこが…」

 話の途中で玄関のベルが鳴り、あいこさんは

「はーい。」

と立ち去った。

 ねえ!そういうとこが何!?何なの!?と思ったけど、話はそこで終わってしまった。


 あの時も今も、「そういうとこが」の先は分からないけど、どうせ分からないから、おれの都合のいいように解釈させてよ。

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