町を出て北に延びる国道93号線を歩けば、再び左右に荒野の広がる真っすぐな道が灰塵の向こうに伸びるだけの景色が続いた。

 ただ、それまでよりも勾配に富んだ地形だった。右手には平地があったがその奥にはティプトン山をはじめとした山々が峰を連ね、その北のほうにはグランドキャニオンの扁平なシルエットが霞んで見えた。左手は谷になっていて、重い粒子が立ち込めているのか右手側より濃い霧か霞が覆い隠していたが、その先には州境を流れるコロラド川やモハーベ湖があるはずだった。

 何日も何日も、同じ景色が続いた。

 経口エネルギー食は底を突いていたものの、幸いにもピューヒュレク家の客間に並べられていたサイボーグやアンドロイドの中にはまだ生きている規格バッテリーを体内に備えているものがいくつかあったから、それを持ち出していた。

 変わらず人や車と行き会う事は無かったが、夜になって暗くなるころには道を逸れ、岩陰に隠れるようにして休んだ。

 やがて道のすぐ脇まで山肌が迫り岩石質の地層だけが目立つ山地になって、それからまた何日か歩けば道路は高架となった。フーバーダムを臨む、バイパス道路だ。幾本もの電線を張り巡らせた胴回りの太い鉄塔が、道路以外には久方振りに見る文明の名残だった。

 かつて絶景を称えられ、観光客の絶えることのなかった遊歩道を右手に、ネバダとの州境を越えた。

「昔、おまえと母さんと、3人で来たことがあったなあ」

 真っ黒に澱む水面を見下ろしながら、しみじみといった風情でハクスリーが零した。

「あの頃は楽しかった」

「ええ、とても」

「そういえば母さんは、エマはどうした」

 どこにいるんだ、とにわかに不安げな表情になって、ハクスリーはきょどきょど辺りを見回した。

「次の町でぼくたちを待っていますよ。オレンジケーキを焼いて待っていると、手紙を貰ったじゃありませんか」

 ハクスリーの妻がオレンジケーキを作らせたら町いちばんの名人だということは、それまでにテッドが散々耳にしていたことだった。

「そうか、そうだった」

 ハクスリーはそれを聞き、深く安堵した様子で肩の力を抜いた。

「急ごう。おまえの腕も、医者に診てもらわにゃならんしな」

「ぼくは大丈夫です。ゆっくり行きましょう」

「なんの、おまえも知っているだろう。エマのケーキは焼きたてこそ抜群に美味いんだが、冷めたらべらぼうに硬くなる」


 ラスベガスは、今まで2人が揃って訪れた中で、最も大きな都市だった。地形は再び平らになり、密集した住宅地が砂漠の中に現れた。それを過ぎてしばらくすると、背の高い看板の名残が、通りの脇に立ち尽くしていた。打ち捨てられた自動車たちは、へしゃげたタイヤや黒焦げになった内装も露わに道路の真ん中やあるいは歩道に頭を突っ込んで、やがて灰や砂に埋もれる時を静かに待っていた。

 いくつもの交差点を通り過ぎ、その度にもう決して灯ることのない傾いだ信号機をくぐった。地形は平坦なままだったが、市街の中心部に近づくにつれ背の高い建物は増えていき、そのどれもが強く吹き付ける風や砂で外壁を荒くこそげとられていて、看板はあらかたもげて足元に落ちているか、そうでなくても文字は殆ど読めなくなっていた。ショッピングモールの立体駐車場や窓のなくなった劇場に風が吹き込むたび、低く高く音がうなった。

 文明の残滓が色濃く、それだけに一層荒涼とした都市の成れの果てに、しかし人はいた。

 先にハクスリーたちが見つけられたのは、一種の僥倖と言うべきだったかもしれない。

 視線の先、幹の半ばで折れて倒れた街路樹の向こうで動くものがあった。

「あれは、」

 注意を促そうとするテッドを、ハクスリーが注意深く咎めた。

「余計な声を立てるな、動くんじゃない」

 ひそやかだが、突きさすように鋭い声だった。

「こちらには気付いてないようだ。後を追うぞ」

 隔てる距離は300ヤードほど、人影は纏った襤褸に着ぶくれて男か女かすら定かではなかったが、2人に気付いた様子は無かった。片手に何か袋のようなものを持ち、ちょうど背を向けて歩み去る格好だった。

 足音を殺し、焼けて黒焦げの外装だけを残した車や殆ど根本だけを残して朽ちた街路樹の陰に隠れて後を着いていくと、人影は目抜き通りを2ブロックほど逸れた道沿いのフェンスの、ほつれたように破れた箇所ををくぐった。あちこちが汚れてひび割れたコンクリートのスロープを降りて行く先は、道路から7フィートほど下った水路だった。水路の幅は大型車やトラクターがすれ違えるほどの広さがあった。かつてあった雨季に、砂漠に降った雨水がはけ口を求めて集った鉄砲水を逃がすための地下水路だった。地下水路というからには、地に潜るための入り口が存在する。人影が、今まさに入って行こうというトンネルがそうだった。

 2人はまだ道路の上にいて、そこからはトンネルの中の様子は全く分からなかった。人影の背が地下水路の闇に溶け、それきり戻ってこないのを確認してから、ハクスリーはかろうじて原形を留めているばかりのごみ箱の陰から身体を出した。

「行くぞ」


 トンネルのすぐ外まで寄って覗けばさすがに中の様子をうかがうことが出来たが、それも20フィートそこそこに過ぎなかった。可視光の辛うじて照らす先は急な曲がり角になっているようだった。地面は外の水路と同じように乾ききっていて、砂塵が降り積もっていた。年月の経過を示す劣化は見られたがその他にあるものと言えば砂の上に残された何組かの足跡だけで、荒廃そのものの地上に比べればよほど簡素で清浄だった。ハクスリーは小さく舌打ちをして、着いて来いというように顎をしゃくった。

 砂が足音を消してくれていたのは曲がり角に至るまでで、そこから先は風の通りが急激に悪くなるのか殆ど砂は積もっておらず、入り口付近よりもずっと濃い闇が奥の方まで続いていた。

 視界が赤外感知による暗視モードに切り替わり光量の自動調整が安定するのを待ってから、2人は足跡を殺すようにゆっくりと歩き始めた。専門の技師による細ごまとしたメンテナンスを受けずとも暗視機能のような単純な機構は問題なく動作してくれたが、それも劣化を免れることはできず、稼働当初に比べれば機能の立ち上げと切り替え、動作の安定化には数倍の時間が掛かるようになっていた。

 しばらく歩きもうひとつの曲がり角を越えると、今度は物が増え始めた。乱雑に積まれた空き缶や木箱、毛布に寝袋、何に使うのか分からない工具や資材たち。それは、生活感そのものだった。それも、家庭や家を失い放浪する人々が、文明の隅にぶら下がりながら何とか自分たちの手の届く範囲で安全や安心を確保しようとして足掻き、やがて妥協していった結果の。

 ハクスリーはそれらを目に留めてほんの少しだけ立ち止まっていたが、やがてより一層静かに、慎重に歩を進めた。緊張を強いる周囲の状況のためか、正気でいる時間が平時よりずっと長く続いていた。

 そのせいであったかどうかは、定かではない。

 背後の方から、カツンと金属質で軽いものがぶつかる音がして、びくりとそちらに大きく気を取られた。

「おい」としわがれた声が上がって、通路の奥の方を再び振り返った時、目の前で急に激しく発光するものがかざされた。

 それは電池式のランタンに過ぎなかったが、暗視機能の調整が間に合わないハクスリーの防衛機構は反射的に両腕を庇うように突き出し、身体を丸めることを選択した。

 その後頭部に、何かが振り降ろされた。直径2インチほどの芯の詰まった鋼材だった。ひとたまりもなくハクスリーは崩れ落ち、その後ろでテッドも蹴飛ばされて地に転がされて抵抗することもままならず滅多打ちにされていた。

 ハクスリーは我に返ったように横に身体を転がし、仰向けの体勢でリボルバーを抜いて視界がようやくそれと認めた人影に銃身を向けて引き金を絞ったが、ガチン、ガチンと空の雷管を打つ空々しい音が響くだけだった。

 襲撃の主は銃口を見て一瞬怯んだものの、弾丸切れだと分かると同時に鋼材を思い切り振り抜いた。それは狙い通りに銃把を握るハクスリーの右手に命中し、親指をはじめとする3本がでたらめな方向を向いた。

 手中のリボルバーは弾き飛ばされてコンクリートの壁にぶつかった。肉体の損傷は苦痛ではなく、危険信号としてのみ脳に達するはずだったが、ハクスリーは籠るようなうめき声を漏らした。

「銃は拾っておけ」

 しわがれ声の主が鋭く命じ、ハクスリーの赤外感知画像に、それに応えて動く白い影が映った。ほっそりとした女性のような体型だったが、それが何なのか考える間もなくハクスリーの意識は途絶した。


 ハクスリーは、腕を胴体ごとワイヤーできつく巻かれ、体の自由を失って地下水路の壁際に仰向けに転がされた格好で意識を取り戻した。

「……なんだ、これは」

「ああ、目を覚ましたのか」

 訳も分からず上げた声に、すぐ脇で誰かが応えた。若い男の声だった。

「今、あんたのアンドロイドを解体してる」

「なんだと」

「悪く思わないでくれ」

 心底、申し訳なさそうな声だった。

 ランタンの光で白く照らされた地下水路、ハクスリーを覗き込む男の顔は片側の頬しか見えなかったが、オイルと砂塵でべったりと汚れていた。

「おれたちも、生きるのに必死なんだ」

「アンドロイドなんて知らん。セオドアは、わたしの息子はどこにいる」

「何?」

 狼狽えたハクスリーの問いに、若者は胡乱げに声を潜めた。

「わたしと一緒にいたはずなんだよ。左腕にひどい怪我を負っていて」

「あんた、何を言ってんだ」

 今度は若者が狼狽する番だったが「おい!」と語気荒く咎められ、びくりと肩を震わせた。地面に転がされたハクスリーからは、声の主の姿は見えなかった。

「殺して、おけと、言っただろう」

 しわがれた声の一節一節と共に、何かを振り下ろす音、金属製の何かが破砕されるような音が響いた。それらに合わせて、「やめてくだ、やめ、ください、かっ、あ」とテッドの声が途切れ途切れに響いた。

「テッド、おお、セオドア。そこにいるのか」

「すみません、やめ、うあ」

「なんてひどいことを」

 ハクスリーはひとしきり身体の自由を取り戻そうと体幹をよじったが、それもかなわないとなると、いよいよ顔を歪ませて泣き声になった。

「すまない。ほんとうに」つられて、若者も涙声になった。

「いい加減に善人ぶるのをやめろ」

 ついに見かねたのか、しわがれ声の方が手を止め、何か長い棒のようなものを両手に近づいてきた。手にしていたのは、刃の反対側に鋭いピックを備えた、防災用の斧だった。

「殺せ。電源ケーブルを切って脳殻の髄液をドレインしろ。バッテリーをもぎ取れ。脳みそを切り分けろ」

 若者は痛ましげに首を振っていたが、やがて「分かったよ」と諦めたように言って、斧を受け取った。

 その時、男の向こう側で激しい音がした。まるで、鋭利な金属を露出させた重い塊が、コンクリートの上をのたうち回り地面を引っ掻くような。

「こいつ」

 しわがれ声が降りむいて走りだし、足元の何かを蹴った。

「おい、おまえも手伝え」

 声を掛けられた若者が、のろのろとした足取りでそちらに向かった。

「ハーパー、じじいの方を押さえとけ」

 ハーパーと呼ばれたのは隅の方でじっと控えていた女性だった。「はい」という場にそぐわないほど無機質な返事とともに、ハクスリーのすぐ目の前でしゃがみこんだ。

 ランタンの光のもとでも、薄紫色の瞳がハクスリーの目についた。

 ハーパーは命じられたように押さえ込むのではなく、ハクスリーの無事な方の手を取り、そっと拳銃を握らせた。ハクスリーの手から、弾き飛ばされたはずのリボルバーだった。

 ハクスリーは何が何だかわからないと言ったような顔でそれを見た。弾倉は横に振り出されていて、撃ち終わり撃針痕の付いた空のカートリッジではなく、まっさらな雷管のマグナム弾が2発、装填されていた。

 呆然とハーパーの顔を見つめるハクスリーの表情に、やおら知性と暴力の光が漲った。

 ハーパーが腕と足のワイヤーを緩め終わったその直後、地下水路の濃い闇に閃光が立て続けに2度、瞬いた。


 その後、旅路を共にするようになってから、正気のハクスリーは何度となくハーパーに尋ねたものだ。

「なぜ、おれたちを助けた?」

 その度、ハーパーはじっとハクスリーを見つめるだけだった。

 ある時ハクスリーは、質問を変えた。

「なぜ、あいつらを殺そうと思った?」

「アンドロイドは人を殺せない。知ってるでしょ」

 そっけない返答だった。テッドと同じ時期に同じ生産ラインで作られたというのが信じられないほど、彼らの振る舞いは異なっていた。

「倫理回路なんてどうにでもなる」

「そんなジャンク品に見える?」

「いいや。しかし、おれに銃を渡すってのはそういうことだ。違うか?」

 しばらく黙っていたハーパーだったが、やがて「あの2人、あたしとやる時は決まって代わる代わる工具を突っ込むんだ」と言った。

「それに、感覚器のバイパスだけは絶対にさせなかった」

 ハクスリーは「ひどいな」と言って顔を顰めたが、実のところそれは珍しい事でも何でもなかった。女性型のアンドロイドは黎明期のものを含めて必ずと言って良いほどセクサロイドとしての機能を備えていたし、他方コスト面から男性機能を諦めざるを得ない義体も数多く、それ以外の様々な理由からそれを失った個体も同じくらい多かった。性機能を喪失したところで、セックスもレイプも、無くなることはなかった。

「あいつら以外なら誰でも良かった。あなたを助けたかった訳じゃない」

「やっぱり、殺したかったんじゃないか」

 ハーパーは薄く笑った。

「まあね」

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