拝啓、お社の君[7]【語り手:八代久子】

 長い昔話をしてしまった。

 今日はよく喋る日だ。普段の私の一ヶ月ほどの喋りをしたような気がする。

 リビングのテーブルに戻り、みくじさんと向かい合いながら途中どもりつつ話す私は、話切ったあと喉が乾ききって、すっかり冷え切ってしまったお茶をこくりと飲んだ。

「そうか」

 一つ間を空けて、みくじさんは一言呟きながら片手で湯飲みを揺らしている。

 私はしばらく無言が続くリビングの中で小さく身を縮ませるしかなかった。

 呆れているのかもしれない。こんな幼稚なことで死を選ぼうとした自分に。

 千歳に至っては頭上に浮かんでいてどんな表情をしているか分からないが空気から察するに、満面の笑みでないことは確かだろう。

「ヒサコ」

「……はい」

「わしは苦しんで絵を描いている奴の意味が分からん」

「は?」

 みくじさんは突然何を言っているんだ。

 私の疑問を他所に、彼女はつらつらと語りだした。

「痛くて辛くて反吐が出るほど愚痴を吐いてまで何故描いているんじゃって、いつも思っておる。スランプだ、なんだと言いながら描いておる奴も、絵を描くことが嫌いだと叫びながら、評価がもらえぬと嘆きながら描いて、悔しいと呻きながらもデッサンを続ける輩が、わしには分からんかった。……お主の話を聞くまでは」

 怒涛にして続く様々な思い当たる節が胸に突き刺さる気持ちで聞いていると、彼女は片手で持っていた湯飲みを机の上に置いて、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「愛していたからなんだな。絵を描くことを」


 みくじさんはそう言って、一つ困ったように微笑んだ。

「好きだとか、嫌いだとか、そういう表面の感情のもっと深いところにある、愛を持ったものが、お主にとっては『絵』じゃったんだな」

「愛……って、どうしてそんな答えを……」

「絵に対して思い入れも何もないわしなら描けんならさっさと他のことを始めるだろうよ。苦しいならやめてしまえばいい。諦めてしまえば、生活から切り離してしまえば楽になれるから。でも、それが出来んほど愛していたから死ぬほど悩んだんじゃないのか?」

 愛している。

 なんて陳腐だ。言葉にすれば笑われてしまうようなありきたりな言葉だ。

 それなのに、どうして今まで騒がしかった胸のざわめきが、その言葉を耳にした途端、段々と収まっていくのだろう。

 私にとって、絵というものは大好きで、大嫌いで、憎くて、恨めしくてそして愛していた。

 難しくてあっさりとした簡潔な答えだ。誰にだって答えられるものなのに。挙句の果てに『死』まで考えてしまうほどだったのに。

 どこまで遠回りしてしまったんだ。

 『愛』という単純で難解な思い一つで、こんなにも大きいことになってしまった。

「愛は毒にも薬にもなるんじゃよ。毒か薬か、決めるのはいつだってヒサコ自身じゃが、お主にとって、絵を描くことは毒か?薬か?」

 私にとっての、『絵』……。

「……分からない」

 滲んだ視界の向こう側で、みくじさんがいるはずの目の前がぼやけ始める。

「分からない。絵が毒か薬かの答えが見つかっても、今の私にはもう何も描けない……」

 これから先のことを考えると不安で押しつぶされそうだった。


 何も描かれない紙が埋まらないのを恐れていた。

 真っ白な天井ばかりを見上げた毎日を思い出した。

 何も生むことが出来ない自分が大嫌いだった。

 誰にも止められないような意志の強さが欲しかった。今の私には、何も無い。


「変わりたい」


 自然に現れた本音は、頬に伝う一筋の涙と一緒にこぼれ落ちる。

「こんな弱くて情けない自分を、変えたい……。でも、すぐ出来るか分からない……」

 瞳の端に幾度も流れる涙を感じながらも心の底にあった本当の願いを探し当てた私は堰を切ったように嗚咽を漏らした。

 変わる、だなんてそんな大層なことが出来るのだろうか。

 とても、長い時間がかかりそうだ。

 私の様子を見つつ、ぎぎっと、椅子を軋ませてみくじさんは姿勢を正した。

「変わる期間に日数なんて決まってない。年単位だって人生全てを使ったっていい。辛くなれば止まっていい。歩き続けることだけが、前を向くことだけが正しいはずないから。今はただヒサコが変わりたいと願ったことがとても大きな進歩だ」

 未だに泣き止まない私に、ハンカチを差し出しながら、みくじさんは話す。

 涙を拭う間、頭上で千歳は、透けた手の平で何度も私の頭を撫でていた。

「ヒサコは立ち止まることの大切さを知らなすぎる。空白を埋めることだけが人生じゃない。人生の中に空白を自ら生むことだって、大切なことじゃ。お主が今立ち止まっておることは決して間違いではない。人生は急かしていない。時間ならある。というか、作れる」

 みくじさんの言葉に、千歳も何度も「そうだそうだ」と頷いた。

「ボクもそう思う! ゆっくりゆっくりは大切!」

 リビングのカーテンの向こうから日差しがのんびりと時間の流れを感じさせないように照っている。時計の針の音が心臓の音とシンクロする。

 今まで気付かなかった世界の時間の動き方に触れて、私はそっと目を開ける。

 この世は誰も私を責めていない。責めている人だっているかもしれないけれども、一番自分を責めていたのは自分自身だ。

 目の前に見えるみくじさんの顔がまだしっかりと見られなくて、顔より少し下の首元にある紅葉色のマフラーを見ながら私はゆっくりと落ち着かせるように深呼吸した。

 机に染みていた雫が渇き始めて来たのを一度確認してから、今度はもう一度しっかりと私はみくじさん、続けて頭上に浮かぶ千歳の顔を見つめる。

「……ありがとう」

 膝の上に置いた拳を握ってから、私は二人の言葉に感謝の意を込めてお辞儀した。


「……あの。みくじさん」

 急須に淹れなおしたお茶を持って来てから私はみくじさんに声を掛けた。

「しづくさんに後で音無子神社にお礼持って行っても良いですか? さっき買った八つ橋持って行きたくて……」

「おお、良いぞ。今から行くか?」

「少しすることがあるので、時間いただいてもいいですか? 待っている間、ナギ見ていてもいいので」

「本当か!?」

「ブルーレイの方にメイキングの特典映像入ってるので……」

 私はみくじさんに魔女ナギの円盤を渡すと、千歳も「ボクも見る~!」と言いながらリビングにあるテレビへと向かったのを見届けた後、私は自分の部屋に入り、勉強机の中を漁るといつ買ったか思い出せないくらい昔に買ったウサギやらクマやらが載ってあるファンシーな便箋と封筒が奥の方から出してきた。

 書いたところで、何か変わるかなんて言われたら分からないけれど、自分の手で書きたかったのだ。お社の君への手紙を。

 これは決意表明だ。自分の心の内に今秘めている思いを残す為の。


 私は一時間と少し、たった数行の文章を便箋にしたため、ウサギのシールで封をして、急いで二人がいるリビングへと戻る。

「出来ました。行きましょう、音無子神社」

 八つ橋をいくつか入れた小さな紙袋と、手紙を持って私は二人に声を掛けるとみくじさんと千歳はテレビから目を離さずに食い入るように見ていた。

「まさかバトルシーンのメイキングが見られるなんて思わんかったのう〜!」

 興奮気味に熱っぽく語るみくじさんは私の姿を確認すると途中で切るのを惜しみながらリモコンを手に取り停止ボタンを押した。

「今度、また途中から見に来てくださいよ」

「いいのか!? 行く行く~!!」

 やった~! とはしゃぐみくじさんは心底嬉しそうに両手を高く上げた。

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