束ねた結びと縁の果て[7]【語り手:八代雅雪(過去回想)】
電化製品は壊れる為にある。
僕がラジカセを壊した、と涙ながらに父親に謝った時の父親の言葉を、僕はその日何故か頭の中でずっとループしていた。
「使われるものは、最初から使い切られるように出来ている。壊れるのは当たり前。だからね、マサが壊したわけじゃないんだよ」
と、父親は慰めてくれたのだ。
けれど、あの時、僕の目の前で壊れていたのは、治しようもない、変えようもない、僕の妹だった。
『堕ちた天才』だなんて洒落た名前を付けられた妹――『八代久子』は、今年から高等部の美術科となるはずだった。
琴吹学院は中等部と高等部が存在しており、高等部には僕が通う普通科の他に美術科、国際学科も存在している。
久子が誘われたのは美術科だ。
彼女は美術の才能――中でも絵を描く才能に恵まれていた。
才能なのか、それとも久子の頭の中で絵を描くこと以外に興味が無かったのか、とにかく何にも無関心だった彼女が唯一絵に対してだけは意欲的に取り組んでいた。
昔から美術に詳しい人はもちろん、あまり絵に関心がない人にまで名が知られるほど久子は有名人だった。……本人は気付いていないかもしれないけれど。
数々の賞を取るたびに大人達は揃って久子を褒め称え、文句の一つもなく高等部の美術科特別進学生という枠で久子を受け入れると誘いに来た。
父親は海外出張が多く、家族の内情についても特に口を出すこともない。となれば決定権は母親と久子であるのだが。
母親に至っては久子の意思を尊重する、の一点張り。
久子に至っては「描ける場所があればどこでもいい」とだけ言ってまた作品を延々と描き続けてしまったので、「はい」でも「いいえ」でもない曖昧な答えになってしまった。
しかし、この答えは案外あっさりと帳消しとなってしまった。
久子が自殺未遂をしたからだ。
ある日、操り人形の糸がプツンと切れたように筆を持った手を力なくだらんと下げ、何時間もの間、キャンバスを見つめる日を彼女は過ごしていた。
僕も最初は彼女に訪れたのは俗に言うスランプというものなのだろう、と見守る気持ちでいた。
しかし、彼女は全くと言っていいほど動きはせずに何回かの朝が来て昼が来て夜が来ても、彼女は何も声を発さず動かずにただただずっと何一つ色を置かない真っ白なキャンバスを見つめていた。
筆を持たずに、何も描かずに、ずっと閉じこもっていた久子の気持ちは分からず、過ぎる日々だけが増えるだけで。
これはいけないのではないか、と不安に思い、声をかけようとした矢先に彼女はゆっくりとまた筆を動かし始めた。
ああ、何か着想の一つでも思いついたのかもしれない、と一安心したのもつかの間、やけに普段とは違う雰囲気だった。
久子は真っ白なキャンバスを一面真っ黒にするように塗りたくり、それからまた真っ白な色で塗り直していたのだ。
絵に対して素人の僕にも、一枚のキャンバスが白くなり、黒くなり、また白くなり、黒になりつつあった異様な光景にいたたまれなくなり、意を決して止めに入ろうとしたある日……少し前のこと。年も明けてすぐのことだ。
夕飯の支度の為に買い物をして自宅に帰ってきた僕が最初に目にしたのは床に落ちていた刃が光るカッターナイフと、黒々しくも白々しい濁った作品の前で、椅子から倒れこみ、床の上で僕の目の前で冷たく動かなくなっていたのは、紛れもなく、僕の妹だった。
電気の一つも付けずに、カーテンも開けずに、誰にも見つからないような場所で彼女は自分の描いたキャンバスに新しく濁った赤色が飛び散るように加えていた。
濁った赤色が垂れるように流れて繋がっていたのは久子の腕あたり。察しが悪い僕でも彼女が腕を切って、自身の血をキャンバスに塗り込んでいたのは目に見えていた。
しかし、僕には彼女がただ単純に自殺がしたくて血を塗り込んだという風には見えなかった。
何故なら彼女自身がまるで作品になりたいかのようにも僕には見えてしまったからだ。
異様な光景に一瞬訳が分からずに呆然と立ち尽くしていたが、すぐに我に返ったように両手に抱えたビニール袋をひっくり返す勢いで、僕はポケットに入っていたスマートフォンを取り出して震える手で救急車を呼び出した。
震える声で住所と名前を伝えている間、袋が引き裂かれた境目に見えたのは、まるで悪い事がこれから起こる象徴のようなオムライスを作る為に買った割れた卵だった。
そして、その予言は当たってしまうかのように久子には三か月の入院が言い渡された。
精神的な内側の乱れが激しい状態なので、極力外側からの刺激を避けるために見舞いは来ないでください。
医者からの説明はそのような淡々としたものだった。
学校中では『堕ちた天才』なんて噂の一人歩き。
今までも何度かあった。僕の大切な妹が不安定になっていく様を『落ちぶれている』と心の中でせせら嗤う奴らに。
久子にはまだ『天才』という言葉は荷が重すぎたのを何故周りも僕も気付かなかったんだ。
あの子は絵を描くだけの機械じゃない。奇怪で奇才な存在かもしれないけれど人間だ。
八代久子は客観的に見ればまごう事無き天才なのかもしれないが、兄から観たら自分が望まずとも悲しいほどに才能が有り余ってしまっただけの、女の子なんだ。
僕の妹の不調をまるでゴシップネタのように先生や生徒の話題の一つになっているという事実に、やはりどう転んでもあいつは有名人なんだと、身を以て知った。
飲まず食わず、さらには寝ることもせず、いくつもある締め切りに間に合うように絵ばかり描き、悩み苦しみ、誰かに頼るということを知らずに自分自身の作品しか信じられるものが無くなって縋る藁も見つからずに崩壊させた少女を仕立て上げたのは、一体誰なのか。
無理に頼み込んだ大人達の仕業なのか、久子の体調管理不足だったのか。
いや、そのどれでもない。久子の心を殺してしまったのは。
一番近くにいながら、何も言い出すことが出来ずに妹を守れなかった『僕』なのかもしれない。
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