スクリプトルは悲劇を望まない[2]【語り手:小西或斗(過去と独白)】

 そうして彼と再会するその日はやって来た。

 風通しが悪く、歩く度にみしみしと鳴る床を越えたその先に文芸部の部室はあった。

 天使の羽のような白い埃が宙に舞う中、恐る恐る文芸部の部室に足を踏み入れると、古びた小さな窓に、周りには古びた棚や、等身大の埃を被った姿見まである。

 使い古された折りたたみ式の椅子がテーブルを挟んで二脚置いてあり、ドア側の方にあった一脚はもちろん無人なのは間違いない。

 そして奥にあるもう一脚の椅子に、依然として長い前髪を垂らしながら文庫本を読みふけっている彼はいた。

 声を掛けると無言でこちらを見据える彼に、少し怯える。

 無造作に長い髪を一つに横で結わえていた髪型が特徴的で、学ランを着ている。

 透き通るような白い肌に浮かぶ表情筋なんて、一度も使ったことのないようだ。

 彼のキュッと引き締めた唇が驚きのあまり開いたのは、僕が彼に指輪を見せたから。

 僕の心臓は破裂しそうな勢いだったが、彼は、震える手で僕の渡した指輪を凝視し、僕の顔と見比べた。

「どうして――?」

 聞けば、この指輪は彼にとって心から大切だったものだという。

 彼の姿を初めて間近で見た瞬間、僕は突如舞い降りた奇跡的な再会に心躍る気持ちと共に、彼の瞳の奥に僕の姿が反射されてしまったことが申し訳なくなってしまった。

 彼は月のような人物だった。

 乳白色の肌に、長い睫毛に覆われた切れ長の目。

 焼けるような瞳の色でありながら、凍てつくような目つきに見下ろされた僕は、人形のように静かな彼の佇まいに、近寄りがたい美しさを感じた。

 近付けば近付くほど、触れてはいけないような、どこか恐ろしいような。

 僕は彼の玲瓏な声を、聞き逃さないように自身の耳に刻み込んで頷いてから、一つ深呼吸した。

「ず、ずっと」

 上ずった声に自分でも驚く。

 だって、目の前に僕の待ち焦がれた、神様がいるのだ。

「貴方に、ずっと……会いたかったから」

 勝手に感謝して、勝手に僕は自分の思った通りに事が進んで、自分を肯定されたと勘違いしたのだと思う。

 勝手に縋って、勝手に神様みたいに君を求めていた。こんな僕のこと赦される筋合いなんてないのかもしれない。

 それでもいい。全てを心の内に隠して、君の隣にいたい。

 初めて僕は僕以外の存在を人生の登場人物に加えたいと切に願った。


 ねぇ。君はずっとここにいてくれるかな。

 僕の側から離れないで。

 お願い。

 もう寂しい思いはしたくないんだ。

 ずっと。僕の隣に。





 懐かしいな。

 何度も願った遠い記憶だ。

 それでも彼はこの場を去った。僕に何も言わずに。

 だから、僕が創り上げたよ。『本当の君』を待つ為に。


 舞台の切り替えをする為に、幾人目かのしづくの心の臓を深く押し込むように貫いた。

 そしてまた君の亡骸に愛しさを覚える。

 倒れ込んで動かない赤く染まった君の姿ほど麗しいものはない。

 僕の思った通り君は骨の髄まで綺麗だったので、心の底からホッとする。

 ほら、彼はやっぱり僕の思った通り、綺麗じゃないか。

 なのに。

 どうして、上手くいかないの。

 この舞台の中で僕と君との幸せな物語を終えたいのに、どうして、僕の脚本通りにしづくは動いてくれないの。


「答えてよ、しづく」


 頬を伝った涙を拭うことも忘れて、冷たくなった彼の手を握りしめながら僕は問いかける。

 愛する君に憎しみを向けてしまうなんて嫌だから。

 飾りの感情を取り除いて、さらけ出して、ちゃんと僕の求める答えは正解だって証明したかっただけなのに。

 幾度も幾度も繰り返しても、僕の前に、理想の『しづく』は現れない。

「僕のしてきたことが間違っていると言われたら、どうすればいいかしづくには分かる?」

 語りかけてはみたけれど、血の海に浸ったしづくからの返事はない。

「元々ある答えをね、いっそ変えてしまえばいいと思った。だから何度も僕と君との物語を書いたんだ。そのどれもがボツになった。その度にもう一度最初から脚本を書きなおした。この方法しか無かった。舞台をもう一度始めるには」

 根気強く僕は、まるで自分に言い聞かせるように、うんともすんとも言わないしづくに話しかけてから、暗闇の中、ゆっくりと目を閉じる。

「僕は君との物語の終わり方に納得していない。終わりが無ければ創り出さなきゃいけないんだ。自分だけで、正しい僕だけの……僕等だけの世界をね」

 自分の思いを確認出来た僕は目を閉じた時と変わらない視界に安心しながら、目を開ける。

 既往の世界に閉じこもって未来を創り出そうとするなんて、馬鹿げている。

 それでいて、魅惑的だとも思う僕はもうおしまいだ。

 ここは、僕が求める、理想の世界。

 『内面世界』なのだから。

 床に敷き詰められた何人ものしづくが殺されてきた様を僕はじっと見つめる。

 一体全体、何体の死体を見てきたのだろう。

 いつになったら僕の理想のしづくはやってくるのだろう。

 どうか、どうか。お願いだ。 今度こそ、僕の求める結末を迎えることが出来る彼であってくれ。


 シェークスピアは昔こう言った。

『神様は、私達を人間にするために、何かしらの欠点を与える』のだと。


 僕の欠点は、どうしようもない孤独かな。

 何処にいたところで、その孤独な気持ちは心の中から這い上がってくる。

 苦痛だと思った事はない。

 それが当たり前だったから。

 一生僕は独りでいるものだと思っていたから。

 他人と付き合わない理由については幾つかあるけれど、その大部分は付き合いが長くなるにつれて、人間の――と言うか生物の――汚い部分を沢山見て知って感じてしまうからだった。

 その様子を垣間見てしまった時、何度吐きそうになったか分からない。

 元から敏感なのかもしれない。

 人の感情に、空気に。

 まぁ、言ってしまえば、それとは逆に自分の汚いところを他人に知られてしまうのを恐れていたから、というのもある。


 僕は、汚い。

 汚いし、醜い。

 嫌われたくない、好かれたくもない。

 他人を知りたくないなら、人間に興味を持たなければいい。

 自分を知られたくないのならば、誰かに近付かなければいい。


 いつからか僕は他人に名前を聞くのをやめて、覚えることも極力避けていた。

 聞いてしまったら、その人が自分の人生の中の登場人物になってしまう。

 僕の世界の登場人物は僕一人だけなのだ。僕一人いれば、十分に、世界は成り立つ。

 自分の人生のエンドロールに乗る名前は僕一人だけで、十分だ。

 そう信じていた僕の中の常識を消し去って、初めて僕の人生に名前を記したしづくの記憶がそう簡単に消えるわけがなかった。

 僕を赦してくれた神様みたいな愛しい君とまた会いたいと願うのは、自然の摂理に反してでも叶えたい願いだった。



 今日も僕は君の亡骸に恋をする。いつか本当の君に出遭えるその日を待ちわびながら。

 僕の居場所は、もうここしかない。

 床下に飛び散ったガラスの欠片を光に照らしてみると、そのガラスに映っていたのは、汚らしい僕自身だった。

 本当は君がいないことを知っている。それでももう少しだけ探させてほしい。

 全部僕の妄想でも虚像でも幻でもいい。幻影を追い求めさせてほしい。

 夜が、今日も更けていく。

 暗く深く沈んでいくこの感覚をいつも僕は愛しく感じていた。

 きっともう、ここには夜明けは来ない。


 また、舞台は次の幕が上がる。

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