視える境と知らぬ未来[6]【語り手:八代雅雪】
いくつか日数が過ぎた、とある日の学校終わり。
帰宅をしようと階段を降りると、職員室へと向かう途中に白い塊が丸まっていた。
気になって近付いてみると白衣姿の小西先生だった。そうだ、この前の傘のお礼を言おうと近付いてみると、彼が見ていたのはあの『鏡』だった。
その状況を見た僕は内心、じっとりとした冷や汗をかいていた。
どうしよう、僕が小西先生を遠くに連れて行かないと。
この周りは危ないって原が言っていたし、何かあったら遅すぎる。
「こ、小西先生!」
勇気を振り絞って声を掛けると、背後から突然声をかけたからか、振り返って驚いたように彼は一瞬体を硬直させた。
「す、すみません、突然声をかけて……」
「いや、構わないよ。どうしたんだい、八代くん」
すぐに気を取り直したのか、人の良さそうな笑みで僕に微笑みかけたが、目はぼんやりとしていて夢見心地のような表情をしていた。
「……あの、今何か見ていました?」
恐る恐る聞いてみると、「ああ。これだよ、見えるかい?」と、小西先生は鏡の奥の方を指さした。
指の先を辿って見てみると、やはりそこには夕暮れがかった教室のような空間が鏡の向こうに映っていた。
まるで誰かの幸せな思い出の一ページを切り抜いて大切にしまい込んだような、温かくて、何もかも受け入れてくれる母親の胎内のように落ち着いた空間。
慌てて周りを見渡したが平坦な廊下が続くだけのここに温かな教室はどこにも存在しないし、空は夕陽なんてどこにも見えないよどんだ曇り空が埋め尽くしている。
小西先生はキラキラとした瞳で愛おしそうに見つめていた。
「ふふ。今日も見られて嬉しかった。ここを見るの日課なんだ。何故だか安心した気持ちになれるから」
満足気に鏡をじっと見つめる小西先生の瞳の奥は楽し気なはずなのに宵闇のような影が見え隠れしている気がした。
「綺麗だよね。とっても楽しそう。僕もこの世界に行ってみたいな」
駄目だ。どうしよう。
夢のような世界に一歩踏み出してしまう彼の姿を必死に引き留めようとするが、小西先生の身体はどんどんと鏡の方へと近付いていく。
この前の僕と同じことが小西先生に起こっていた。明らかに、この現象はおかしい。
不審に思ってこの鏡のつくりをよく見てみると、ところどころにヒビのようなものが見えた。
何かがずれているような違和感。
真新しい壁と廊下。眩しいくらいに傷一つ無い天井の中に佇む、目の前のヒビ割れたボロボロの、鏡。
時間の進みがここだけ取り残されたような、物体。
鏡を見ると急激にぞわりとした嫌な悪寒が身体中に走る。考えてみたらどうして、こんなにも古い鏡がここに存在しているんだ?
小西先生は今一体『何処』を視ていたんだ?
「――『小西或斗先生』」
歪んだ思考を強制的に正すような凛とした低い男性の声が、廊下に響き渡った。
叫んだわけでも、大声を出したわけでもないのに、小西先生は動きをぴたりと止めてぼんやりとした瞳で声を発した人物を見た。
「……仁志先生」
「小西或斗先生。職員会議の時間ではないですか?」
眼鏡をかけなおしながらこちらに近付いた長身の彼は、僕のクラスの担任であり、あの独特なフルネームでいつも僕達を呼ぶ仁志誠先生だった。
「そうでした……すみません」
答えながらその場をぼんやりとした表情で後にした小西先生を見守っていると、仁志先生は「八代雅雪くん」と僕に向かって声を掛けた。
「はい……?」
「今から少しお時間いただけますか」
「大丈夫ですが……。でも、職員会議は」
「先生方には急用で席を外すと伝えてあるので」
準備室でお話しさせて下さい、と仁志先生は僕を連れて国語準備室へと向かった。
「貴方に鏡についてお話したいことがあります」
長机を挟んで、湯気の立っている仁志先生が淹れてくれた煎茶を前に、僕は彼と向かい合ってパイプ椅子に座っている。
僕は猫背気味の自分の背をいくらか伸ばした。
「仁志先生は、あの鏡についてどうして知っているんですか?」
「死神としての仕事の関係で」
「ああ、なるほど」
「はい」
「…………『死神』!?」
納得しかけた自分の思考にストップをかける。
今まで教師として接していた人間が、死神だという事実を上手く飲み込めない。
「ですので、琴吹町全体の人間のデータもあらかた記憶しております。もちろん、貴方のこともね」
そうだとすると、仁志先生は知っているのだろうか。僕が人間以外のものが視えたり、この世のもの以外の存在を知っていることを。
――だから、話しているんだよな、僕に。
「私は現在、琴吹学院に現れた鏡からの怪異関係の乱れについて調査する担当を兼ねて教師として潜入しています」
どうやら彼は真顔で冗談を言っているわけではないらしい。
「信じなくても構いませんから。ただ事実であることは確かなので」
説明、始めます、と言われたので僕は戸惑った表情のまま頷いた。
「怪物、怪異、妖怪……と呼ばれる類には、いくつか種類があります。今回の鏡の現象はヒトに望まれて『生まれてしまった』ものです」
極々稀に怪異の発症源がヒトであると、望まれたら望まれた分、その力を発揮できる強大な存在となるのだという。
しかし、ヒトが『望まなくなれば』、或いはその存在を『忘れてしまえば』呆気なく消失する脆い存在でもあり、鏡……というよりも、『人の念の産物』は、見たところ、今現在も誰かの強い願いによって存在しているものだと考えられる、と仁志先生は説明した。
「鏡の奥に潜んでいるのは発症源の心を具現化し、心残りのある場所に根付く空間です。私達は『内面世界』と呼んでいます」
「内面世界……」
「簡単に言ってしまえば、思い出をなぞりながら幻影を見せる空間。未練に縛られている人物が虚像に魅せられて報われた気分になる唯一の居場所です。精神が弱っている状態で近づけば創り上げた人物以外も空間に飲み込まれてしまう可能性があります」
「では、小西先生もあの空間に飲み込まれる可能性も……?」
「小西或斗に至っては、怪異の一部となる可能性が大いに高い」
諦めたような仁志先生は淡々と言葉を繋げた。
「発症源は小西或斗本人だと考えられるからです」
「えっ?!」
「あくまで、憶測です」
一旦の休憩をするために、湯呑を持った彼はお茶を一口飲んだ。
啜る音も立てずに上品に飲む彼の所作は美しく見惚れる程で、まるで礼儀の手本を習っているような気分にもなる。
僕も仁志先生に倣って乾いた唇を湿らせる為に、お茶を飲んだ。
「……運悪く閉ざされればもう彼が現実に戻ることは無い。いつしか内面世界に籠って形もろとも消えていき、念だけが残り続けてこの学校に歪みをもたらす存在になります」
「その予想は本当なんですか? 何か……小西先生をあの鏡から離れさせる方法はあるんでしょうか」
「方法……。そうですね。私はデータとして彼の生きてきた軌跡は知っています。小西或斗はデータによると琴吹学院に以前通っていました。十年ほど前、校舎が立て替えられる前に」
「琴吹学院って、改装していたんですか?」
「ええ。あの鏡があった場所も渡り廊下ではなく、校舎だったのですよ。……小西或斗がいた『文芸部』も、その中にありました。そして……『彼』もいました」
「その『彼』って……」
僕の言葉に、彼は一定して変わらない単調で均等な言葉の羅列に似つかない、言い淀むような口調でこう言った。
「……心残りを消すことが出来るであろう人物がいるにはいるのですが、きっと実行することは不可能でしょう」
「いることに変わりはないじゃないですか! どんな方なんですか?」
彼は急須に残ったお茶を量の減った僕の湯呑に追加してから、ゆっくりと口を開いた。
「小西或斗の心残りであり、内面世界を創造させた原因は……」
仁志先生の続けて言ったとある人物の名前に、湯呑を持った手が衝撃のあまり揺れ、せっかく淹れてもらったお茶を勢いよく机の上にぶちまけた。
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