視える境と知らぬ未来[4]【語り手:八代雅雪】

 朝。電話のコール音で目が覚めた。

 眠気眼をなんとか開けてあくびを噛み殺しながら自室にある子機を手に取る。

「はい……八代です」

『おはようございます、八代雅雪くん。琴吹学院二年B組担任の仁志です』

「あ……おはようございます、仁志先生」

 張りのある凛とした声は、僕の担任の仁志誠先生のものだった。

 几帳面なのか丁寧なのか、彼はいつも生徒をフルネームで呼ぶという独特な呼び方をしている。

 壁掛け時計を見ると、九時を過ぎていた。学校では一時間目が始まっている時間だろう。

『体調の方はいかがですか?連絡の方はしなくて良かったかもしれませんが……。やはり気になったもので』

「はい。昨日よりは良くなりました」

『それは……良かった』

 いつも厳しく堅苦しい声のイメージがあった彼の声から、いくらか柔らかくなった声を聞いて、僕にも彼が安堵したのが伝わった。

『ゆっくり休んでくださいね』

 はい、と小さく返してから僕は通話を切るボタンを押して、一つ大きく伸びをした。


 昨日の大荒れの天気は何だったのか、とでもいうほど台風一過のごとく突き抜けるように真っ青な広い空を見上げた僕は、時間も空いたし、と思い母さんの見舞いに病院へと歩を進めた。

 仁志先生からの電話以降、午前中から今までは久々に家事の手を休め、布団の中で読み切っていなかった漫画を読むなどして過ごしていたので、体力的には十分回復している。




 病院に着くと、磨き抜かれたような真白い壁と天井が現れ、少々たじろいでしまった。

 病院――『琴吹市立中央病院』はこの町の中で一番大きい市立病院で、最近確かどこかの大きな病院とも合併したらしく、規模も広さも力を増している病院だ。

 透き通っていて常に曇り一つない窓。そして、塵一つ落ちていない床。

 僕にはどうにもこの清潔さの象徴のような無垢さを全面に押し出した白さを目の当たりにする度に、病院自体が僕を部外者だと言わんばかりに突き放しているように見えてしょうがない。

 ひりひりと心が軋むような感覚に負けずに、僕は母さんがいる四階の大部屋へと向かう為、エレベーターに乗り込んだ。

 大部屋に入ると、いつものように六つのベッドがあり、その中でも一番奥の窓際に向かう。

 仕切りに使われているカーテンを開けてみると黙々と本を読んでいる母――八代祥子の姿があった。


 僕に気が付くと、母さんは片手で視界を遮っていた長い髪を無造作にかきあげて、化粧っ気の無い色白な肌に似合わない鋭い眼光をこちらに向けた。


「あら、雅雪。今日はえらく早く来たのね。学校早退したの?」


 いらっしゃい、と言った彼女は読んでいた本を閉じてこちらにさばさばとしたはっきりした声で言った。

「ごめん、今日休んだんだ」

「体調悪いのに見舞いに来たの?毎日のようにここに来なくてもいいのよ、負担になるだろうに。私も特に変わったこと無いし」

「顔だけでも見たくて……」

 僕はカーテンを閉めてベッド近くに置かれた丸いパイプ椅子に腰をかけた。

「なぁに? 甘えたさんにでもなったの? それとも母さんが心配になっちゃったか」

「そ、そういうわけじゃ……いや、心配だけれども」

 僕が焦ったように訂正すると、母さんは周りの患者に迷惑にならないよう押し殺すように笑った。

 母さんが健康診断に引っかかって検査入院を始めたのはつい最近だ。長くはかからないとは言っていたが、やはり身内の不調は心配してしまう。

「ふふ。とにかくそんなに心配することないわよぉ。私を誰だと思ってるの。さっさと退院しちゃうんだから……あれ? 奥にいるのしづく?」

 母さんが僕よりも少し遠くの方に視線を投げかけて「どうして入ってこないの~?」と声を掛けるとカーテンが少し開いて僕と同じ歳くらいの学ラン姿の男子が顔を出した。


「お取込み中だったかな、と……」


 やけに小声で遠慮がちに覗いて来る彼と目が合ったので、僕は小さく会釈をすると、彼は大きく目を見開いた。胸元に紐でくくられた指輪が鈍い光を放つ。

「えっ……お前。ヒト臭いのに、なんで」

「人間ですし……?」

 なんで見ず知らずの初対面の人にそんなこと言われなきゃいけないんだよ。

 僕が不満を伝える前に、母さんが遮るように声を掛けた。

「あ~。なんだ、そんなこと。雅雪は私の息子よ。大丈夫だから安心しておいで~」

 何が僕なら大丈夫なのかさっぱり分からないが、彼は気を取り直したように咳払いをして「ど、どうも」と口ごもりながら小さく腰を折った。

 スペースを開ける為にパイプ椅子を隅に置き、立ち上がって客人を母さんの前に譲るように場を開けてみる。

「……どうぞ」

「……どうも……」

 ぎくしゃくと両者ともに肩を強張らせながら一言交わすと、母さんは呆れたような表情で僕達を見た。

「ちょっとぉ、なんで男子二人でそんなもごもご話すわけ? しゃきっと話しなさい、しゃきっとぉ」

 この中で一番本調子ではない人物に張りのある声で言われ、僕と隣に立った学ランの彼は揃って反省するように頭を下げた。

「ええと……母さん。彼……しづくさん? とはどのような関係で……」

「ああ。しづくとは読書仲間よ。もう読み終わったの? この前貸したばかりなのに早いわねぇ」

 小さく頷いた大人しい彼の反応を見て、母さんは「待ってて~次の巻探すから!」と言いながら棚の引き出しをひっくり返すかのようにガサゴソと漁り始めた。

 母さんが無類の本好きというのはぼんやりと知ってはいたが、まさか仲間がいたとは思わなかったな。

 彼女が本を探している間、手持ち無沙汰になった僕と彼は互いに視線を一度合わせたが、紡ぐ言葉が見つからず、自然に目を同時に逸らした。

 しかし、このままではいかんだろう、ともう一度彼を見ると、彼もまた同時にこちらを見た。

「……どうも」

「どうも……」

 先ほどとほぼ同じ会話をしてからまた目を逸らす。

 その様子をまるで何かの漫才でも見ているかのようにクスクスと母さんは笑った。

「せっかく会ったんだから仲良くしなさいな。……あー、あと、しづく。これ次の巻ね」

 僕だったら絶対に読み切ることはないやけに分厚いハードカバーを母さんは彼に差し出すと、静かに目を嬉しそうに光らせていた。


「八代さ~ん。検査の時間ですよ」

 振り返るとカーテンを開いてやって来たナース服を着た看護婦さんが現れた。

 看護婦さんは僕の方を見て、申し訳なさそうに僕に謝る。

「すみません、お二人が話しているときに」

「……二人? いえ、ここにもう一人いるので三人……」

 看護婦さんの陰に隠れて見えていなかったのか、と僕は思って隣にいるしづくさんを前に出すと、看護婦さんは彼が目の前にやって来たにも関わらず気付かないかのように少し間があった後、「あれ!?」とまるで突然現れたかのような反応を見せた。

「気付かなくてごめんなさい! 何故か『視え』なくて……」

「いえ……」

 しづくさんは寂しげに首を振ったところで、僕はやっと理解が追いついた。

 そうか。もっと早く気付くべきだった。

 『あの』母さんと話しているんだ。彼女の話し相手と言ったら人間の方が少ないだろう。



 母さんは昔から交流関係が広い人物だった。

 女の子の友達はもちろん、異性である男性との交友にも、幼い子供からよぼよぼのおじいさんやおばあさんまで初対面だろうがなんだろうが、目と目が合えば友人、という性格の人物だった。

 しかし、『目と目が合えば』、という考えに問題があった

 母さんの瞳は他人より少しばかり良い。

 視えなくていいものまで視えてしまう。

 異常なくらいに、視えてしまう。

 それが、彼女……八代祥子であり、僕にその血を引かせた母親なのであった。


 


 結局、母さんの検査が始まった辺りで僕は病室から出てきた。

 学ラン姿の彼と別々に病室を出るのもなんとなく間が悪く、結局同じエレベーターを下って一緒に外に出ている。

 空気は肌寒く、身震いするほどで、マフラーとか手袋持ってくれば良かったな……と反省しながらかじかんだ手の平どうしを擦り合わせる。

 気まずい空気が流れる彼との間に僕は微動だにしない学ラン姿の彼を確認した。

 表情は乏しいにしろ、人形のように整った顔立ちだった。今まで日陰にしか存在していなかったような、日光の存在を知らないかのような薄暗い雰囲気を纏っている。

 興味深く見つめ過ぎたのか、視線に気付いた彼の鋭い目付きがこちらに向き、足が竦んだ。目が合わせられなくて、僕は彼が付けている胸元の指輪を凝視する形になる。

「……何?」

 病院の前は老人や小さな子供を連れた母親などが出たり入ったりを繰り返していた。

 しかし誰一人、しづくさんの姿を認識していない。

 風も強くなり、木々が激しく揺れ始めているのにも関わらず、彼の胸まである長い髪の毛を緩く横に一つ結んでいる毛先は微動だにしない。

 この人の周りだけ時間が止まっているようにも感じる。

 死んだ世界にただ一人置いてきぼりにされているような、寂しさを含んだ彼の姿がどうにも放っておけなくなった僕は、勝手に口から誘いの言葉を出していた。

「……寒く、ないですか。どこか、座りますか?」

 僕の言葉に彼は、伏せがちな瞳を迷うように右、左と何度か交互に揺らして、長い睫毛を二度三度ゆっくりと上下させて、形の良い口を開いた。

「……『とこしえ』」

「え?」

「とこしえなら、安心」

 彼が口にしたのは僕のバイト先だった。

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