視える境と知らぬ未来[3]【語り手:八代雅雪】
それにしても帰ったらどうしよう。
晩御飯は簡単なものでいいか、買いだめしておいたうどんでも出して……。
ああ。朝、学校に行く前に干した洗濯物だって取り込まなければ。洗濯機の乾燥で回せばまだ良くなるかもしれない
そうだ、今日の母さんの見舞いどうしようかな……。
「雨、強いなぁ」
煮詰まり始めた僕の脳内が、原の一言で冷静になったのか、徐々に霞みが消えるように澄んでいった。
「……ああ、そうだな……」
言葉を返すと、原は少し背の低い身体を伸ばして僕を見上げた。
「どうした?そんな辛気臭い顔してよ」
「……いつも、こんな顔だろ」
「今日はいつにも増して目が死んでる。そんな目つきじゃ余計周りに人寄って来なくなるぞ。お前元々目つき悪いんだから」
「余計なお世話だ」
目付きの悪さまでケチを付けるのはやめないか。
僕だって、目つきのせいであろうと無かろうと、人付き合いが悪い事は自負している。
降りしきる雨の音を背景に、グラウンドのぬかるんだ砂を踏みしめる僕等の歩いた道を記すように、後から後からスニーカーの複雑に入り交じった模様が連なっていった。
砂と雨でくぼんだ水の溜まり場に足を付け込まないように気を付けながら、僕は先へと急いだ。
「さっきの鏡の辺り、八代は近づかない方がいいよ」
「……え?」
急いでいた足を緩める。
原の方を見ると彼はこちらに耳を傾けたのが分かったのか、歩調を僕に合わせてもう一言続けた。
「八代だって気付いただろ?全体的にあの廊下だけ『気』が悪い。これまで以上に気を付けた方がいいな、八代は。何か後ろ盾でもいた方がいいんじゃないか?」
「後ろ盾ってなんだよ」
「要するにお前を守るような奴」
なんだそれ、という視線を向けると、意味深な言葉を言うだけ言って、それ以上何も言わずに前を向いた彼はそのまま会話に飽きたのか、あくびを一つしてからこの話を終わらせた。本当に猫みたいな奴だな。
靴の底にグラウンドでついたべったりとした泥を擦り付けるように、砂利が転がった地盤の緩いコンクリートの道へと進む。
液状化でもしたのか、ところどころヒビが入っている脆い道の上に足を滑らせるように歩くのが、危うい道を歩いているようであまり得意ではない。
自分の住んでいるマンションの唯一の利点は学校から近いことだ。
いや、言ってしまえば自分が中高を通いやすさで決めてしまった、というのもあるけれども。
曲がり角も三度だけで、ほぼほぼ真っ直ぐな道が続くのみの登下校に不満はそこまでない。
まだ一般的な下校時間では無いからか、いつも賑わっている帰り道も人通りは疎らだ。
先ほどレインコートを着た人が自転車で僕等の横を通り過ぎただけである。
僕等――原はまだ僕の右隣にいる。つまりは車道側。
歩道と車道の区切りの境界線である白い線のギリギリ内側に彼はいた。
今のところ、一度、一般車が通っただけの車道には打ち付けられるような雨粒が飛び散っている。
結局、原は僕の帰り道に全て付いて来ているのだった。
「しっかし、やけに降るなぁ。じめじめして嫌だわこの季節」
傘に落ちる雫がぼたぼたという音になったのを物珍しそうに見上げる原と一緒に、僕も未だ止まぬ空を見上げた。
大型のトラックが横をすり抜けるように走り去り、くぼみに溜まっていた雨の池が大きなタイヤによって四方八方へと飛び散った。
車道側にいた原のズボンの裾に若干跳ねたらしく、彼は一つ舌打ちをした。
「早く、止んでほしいな、雨」
「……そうだな」
僕は頷きながら、ぬかるんだ地面を踏みしめた。
結局僕の家の前まで来た原と別れ、そのまま自分の家へと帰った。
鈴のついた鍵を鍵穴にねじ込むように回して冷たい銀製のドアノブに手をかける。
ドアを開き、浅い深呼吸をしてから口を開いた。
「……ただいま」
挨拶だけは、儀式的にするようにはしている。
誰もいない、返事も返ってこない家の中に癖のようにしている挨拶に、少しだけ虚しくなったのは、どうか気の所為だと思いたい。
ずぶずぶに濡れてしまった靴を脱ぎながら、ぴしゃりと髪の毛の先から垂れた雫が玄関に染み込む様を見る。
シャワーでも浴びることにしよう。
明かりが一つも灯っていないリビングに電気を点けてみると、たちまち部屋全体の時間が動き出したかのように生き生きとし始めるから不思議だ。
視界の明るさに慣れずに目を細める。
いつもの通り何の変哲もない部屋の中で、ただ一つ異質を放っていたのは固定電話に留守電を知らせる赤いランプの点滅だった。
再生を押して、不在着信を一件知らせるアナウンスの後、海外出張をして数年間帰っていない父さんの声が聞こえた。
『もしもし。父さんです。雅雪。……すまない、同僚がミスをして予定していた帰国の目処が立たなくなってしまった。母さんと久子の件、一人で抱え込ませていてすまん。……何かあったらいつでも連絡していいからな』
父さんの声はここで途切れている。
僕は、久方ぶりに聞いた身内の声に、涙腺が緩みそうになった。
受話器を手に取り、折り返し電話でもしようかと考えてはみたが、思い直して、受話器を元の位置に戻す。
静寂が戻った室内には普段聞こえる壁掛け時計の秒針とはまた別の、玄関に置いてあるさっきまで僕を雨から守ってくれた傘の露先から、ぽたりぽたりと雫が落ちていく音がよく響いていた。
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