視える境と知らぬ未来[2]【語り手:八代雅雪】

 世間一般で言う華の『高校生』というものになったからと言って、『私立琴吹学院』の中等部から繰り上がりで高等部にやって来た僕には、さほど周りに変化も無く、学校内でも淡々と日々が過ぎていた。


 外は薄暗く、通り雨はまだ止まない。

 リュックの持ち手を両手でぎゅっと握り締めながら僕は階段を一歩一歩踏みしめて職員室に辿り着く。

 職員室の戸を二度ほどノックして横開きのドアを開けると、どの先生も授業へ行っているのか、ガランとした室内が広がっていた。

 疎らな人数の中、こそこそと耳打ちを始めた先生方を見て、僕の胸が痛いほど縮み、自分が声を出すのも気が引けたが、なんとか「……あの」と用件と名前を声に出そうとすると


「君。どうしたの」


 と、背後から声が聞こえたので慌てて後ろを振り返ると、そこには白衣を着た男の先生がいた。

「フラフラしていて気になってさ。具合、悪いの?」

 不思議そうにこちらの顔色を見つめる彼に、僕は声をなんとか振り絞りながら言葉を返した。

「えっと……。早退届を、仁志先生に渡したくて」


 ああ、なるほど、と頷いた彼は職員室を見渡すと「授業中みたいだね、仁志先生」と不在を伝えた。


「先生が、後で仁志先生に渡しておくよ」

「いいんですか」

 ありがとうございます、と言いながら僕が早退届の紙を渡すと、たれ目の彼はにっこりと良い先生のお手本のように微笑んだ。


「そうだ。君、この雨の中今から帰るの? 傘持ってきてる?」

「あ、実は忘れてしまって」

「待ってて」

 彼は何か思い出したかのように職員室に入ると、ビニール傘を持って戻ってきた。

「これあげる」

「え!? いいですよ、そんな」

「このフラフラな状態でびしょぬれで帰したら、保健室の音無子先生に怒られちゃうでしょ。先生に返さずに持って帰っていいから」

 彼は遠慮する僕に笑いながら傘を無理やり受け取らせた。

「で、でもそうしたら先生が……」

「これ、いつかの通り雨が降ったときに急いでコンビニで買った傘なんだよね。傘自体は余分に持ってるから大丈夫だよ」

「……ありがとうございます。ではお言葉に甘えて……ええと」

「どうしたの?」

「すみません……。何て先生だったか名前が分からなくて……」

「えっ? 君、一年だよね?」

 早退届に書かれている学年を見返した彼はきょとんとした顔をした。

 学年を確認された意味が分からず、頷き「そうですが……」と、言うと彼は苦笑いした。


「僕、一年全クラスの生物を担当してるんだけど」

「えっ」

「毎週会ってるんだけどな……」

 言われてなんとか思い出そうとしたが、ぼんやりとした姿のイメージしか沸かない。印象が薄いのだろうか。

「まあ、僕も君の名前咄嗟に思い出せなかったからおあいこか。『八代雅雪』くん?」

 早退届に記された僕の名前を読んで彼はこちらに暗い水底のような瞳を向けた。


「僕は小西或斗だよ。じゃ、お大事にね」




 小西先生からもらったビニール傘はまだ真新しいのか、それとも物の扱い方が丁寧なのか、傷も汚れも全くない新品同様の傘だった。

 自分も大切に扱わなければ、と両手で落とさないように持ちながらぼんやりと廊下を俯きながら歩いていく。


 職員室に入った時、僕の顔を見た教師が揃って耳打ちしている様を見てしまって、無意識に目を逸らしたけれど、心臓はいやに何度も波打った。

 耳に入れないようにはしていたが、「『『堕ちた天才』の……』」「『ああ、八代さんのところのお兄さん……』」なんてコソコソと耳打ちをしていたのを実は知っている。

 妹も有名人になったものだ。この学校中では、すっかり話のネタの一つになってしまった。

 お陰で僕まで目立つようになった。もちろん、悪い方向で。


「あれ……?」


 僕は渡り廊下の奥にある鏡の違和感が目に留まって立ち止まる。

 覗いてみると、新設同様の校舎である琴吹学院の、まだ傷ひとつ見当たらない床でも壁でもなく、普段見たことのない古びた廊下が繋がっていた。

「なんだろう、ここは……」

 来たことはないはずなのに、懐かしい気持ちへと変わってしまいそうになる。

 鏡の奥に広がっていたのは、柔らかな日差しが似合う校舎だった。

 旧校舎のようなものだろうか?

 こんな場所、琴吹学院の外観からは想像出来ない。

 視界に広がるじんわりと優しく零れるように滲む夕日が眩しく、心の奥の方に染み込んでくる。

 徐々に世界が揺らぎ、誘われるような空間に、ぼんやりと惹かれるように一歩踏み出そうとした瞬間、後ろ手を勢いよく引っ張られた。


「好奇心一つで死ぬもんじゃねぇよぉ、八代ォ」


 舐めるようなざらついた調子の軽い声と共に腕を掴まれた力はあまりにも強かった。

「いっ……た!?」

「痛い? そう。痛覚までは『あちら』に取り込まれていないようで何より」

「……あちらって?」

 慌てて声のした方を振り返ると、そこには僕より少し下あたりの背丈の、やけにアクセサリーを身に着けているチャラチャラとした人物が僕の腕を掴んでいた。

「誰だよ、お前……」

 見ず知らずの人間に突然掴まれて良い気分はしない。僕は不服そうな声を無意識に出すと、彼は案外あっさりと手を離した。

「心外だな。お前は常日頃、文武共に勤しむ同級生の名前も覚えられねぇのかよ。『原郁人』だよ」

「……すまん、知らないな。えーと、原……?は、なんでこんなところにいるんだ。お前は知ってるのか、この……あれ?」

 鏡の方を振り返ると、そこにはいつも通りの校舎が映っていた。

「おかしいな……」

 改めて鏡から目を離し、周りを見渡すと、そこは確かに、木製の校舎だったカケラは無く、職員室から少し歩いた場所にある全面鏡の前の渡り廊下だった。

 なんだったんだろう。あの空間は。

 悩む思考を打ち消すかのように、窓の外には、打ち付けられるような雨脚が、世界を覆いつくしていた。




 耳についたいくつかのイヤリングと首元の黒い宝石らしきものを揺らした隣にいる彼の眩しい姿に目を細める。

「……原」

「なんだよぉ、八代」

「なんで一緒に昇降口まで来たんだよ。まだ授業中だろ」

「眠い。帰る」

 猫のように間延びした長ったらしいあくびを一つした原の言葉に、僕は探りを入れるような目つきで彼を見たが、そんな視線なんて気にしないようにブレザーの下に来た蛍光色のように目がちかちかする緑色のパーカーのフードを被り始めていた。傘を出す動きは見せない。忘れたのだろうか。

 原の隣で僕は小西先生からもらったビニール傘を、花を咲かすように開くと彼は「お前傘持ってんの? 入れて入れて」と図々しくも傘の下に入って来た。

「ちょっ……!?」

「寒いの嫌だも~ん」

 僕は反論の一つも出来ずに、なされるがまま傘の中に入れてしまった自分に大きく溜息を吐いた。

「どこまで?」

「え~どうしよ。門まで行って考える」


 飄々とした彼の鳥の羽のような軽々しい言葉達への反応に困りながら、僕は仕方がなく大振りになり始めた雨の中に足を踏み出した。

 耳に響く雨音が大きくなった。どうやら通り雨から本降りになり始めたらしい。

 朝の天気予報に対して疑いをかけているわけではないけれども、外れた天気予報というのはなかなかに自分にとっては気分が良いものではない。今日は気温が低いとは言っていたが、雨の予報は無く一日中曇りの予報だったはずなのに……。

 音無子先生の言った通り、やけに気温が下がっているのか、右隣にいる原との間の傘の手元を持っている腕には鳥肌が異様に立っている。

 死人が近くにいる感覚と似ているな。

 天気も反抗期なのだろうか。

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