お社の君へ(1)

矢神うた

視える境と知らぬ未来[1]【語り手:八代雅雪】

 休ませてもらう為に用意してもらった保健室のベッドの上で僕は一時間少し、一睡も出来ずにいた。


 何度も白いシーツの上で寝返りを打ったのに、眠気は全くやってこない。無情にも布の擦れる音だけが耳に届くだけの空虚な時間を過ごした僕は、結局寝るという選択肢を諦めた。


 喉がつかえるような気分の悪さに、堪え切れず昼休みが終わってすぐ保健室に向かったから、今はきっと五限終わりだろう。


 自分の左腕につけている時計を確認すると、時計の針は予想通り、五限が終わって二分ほど経ったところだった。


 さすがにそろそろ保健室の先生も僕を追い出したいだろう。その前にここから出なければ。


 ベッドを隔てるために閉じられた白いカーテンを開くと、先ほどまで影に慣れていた瞳に、一気にありとあらゆる外の光が視界に入り、僕は咄嗟に目を細めた。


 ぼんやりと霞んだような脳が、冴え冴えとするまでには時間がかかる。


 終了を伝える聞き慣れたチャイムの放送と、人工的な蛍光灯の鈍く明るい光によって徐々に視界が鮮明になってきた。


 身体じゅう、重くてだるくて鉛のように固まった身体をなんとか起こし、ガンガンとした頭痛に気付かないフリをして、脱いだ靴下と上履きに足を通して床の上を滑るように出口へ向かった。


 すると、薬とはまた違う、優しい香りが室内に漂っていた。


「あら、八代くんおはよう~。ハーブティー入ったわよ」


 てっきり外は消毒液などの鼻につくような匂いが立ち込めているものだと思ったが、何故かどこか穏やかな気分になる室内が僕を待っていた。


 包まれるような丸みのある声でこちらを呼んでいたのは、緩い三つ編みをした保健室の先生、音無子弥生先生だ。


 生徒の気配は無い。カーテンの閉まっているベッドもないところから、僕以外の生徒は保健室にはいないらしい。

「あの、でもさすがに一時間以上ここに居座るのは……」

「お茶する相手が欲しかったのよ~」

 楽しそうに音無子先生はガラスのティーポットを持ち、僕の前に立った。飲まねば出口は通さんと言わんばかりに。

 机の上には、先ほどお茶が淹れられたのか、湯気の立ったガラスのカップが一つ。

 そして、向かいの席にはまだ空っぽのガラスのカップが置かれている。僕の分を用意したのだろうか。


 室内の窓は締め切られていて、外から微かにボールの蹴る音が聞こえる。次の体育の授業の準備なのだろう。

 目の前から逃げるように考えを巡らせるフリをして立ち尽くしている僕を、安心させるように音無子先生は聖母のような微笑みを浮かべながら一度手招きした。

「ほら、早く飲まないと冷めちゃうわ!みんなが必死に勉強している中で飲むハーブティーは格別よ~」

 出てくる言葉は生徒に授業をサボタージュすることを勧めている先生らしからぬ言動だったけれども。

 僕が未だにサボるか否かの答えを探している間に、音無子先生は僕の意見を聞かずにさっさともう一つのガラスのカップにもハーブティーを注いだ。

 口ずさみながら淹れる彼女に近付く為に、恐る恐る前に足を踏み出し、床の木目を正確に記憶出来るほど俯きながら音無子先生が座る席の真向かいに近付いて、ぎぎっと音を立ててパイプ椅子に座る。

「八代くん。ハーブティーは飲んだことある?」

「聞いたことはありますが……」

 しかし、ハーブティー自体は初めて飲むのだ。

 温かそうなハーブティーの緩やかに上る湯気の行く先をぼんやりと眺める。

 当て所のない、行き先も行き場も見つからない空気の行方が気になりながらも、僕は取っ手を右手で持ち、溢さぬようにともう片方の手もやけどに気を付けながら添えるようにカップに手を置いた。

「いただきます……」


「ふふ。美味しいわよ。召し上がれ」

 ハーブティーを一口飲むと、次第に甘酸っぱい香りに乗って優しい甘さが口の中に広がった。


「おいしい……!」


「そう? 良かったぁ。これはね、カモミールティーなのだけれど、疲れが取れるから、おすすめ」

 音無子先生は慣れた手つきで取っ手を三本の揃えた指で持ち上げながら優雅に飲んでいた。


「最近寒いわね~。もうすっかり冬って感じ。寒いの苦手なのよね、私」

「僕も……ですね」

 一年生最後の三学期が始まり、色々と慌ただしくて、あまり外のことまで気が回らなかった。


 ゆっくりとハーブティーを啜っていると、ぱらぱらと音を立てて窓の外から雨粒がこちらに寒さの主張を強めるかのように、何度も叩いて来た。

 突然の雨脚に音無子先生は「あらまぁ」と言いながら、背後の窓の方を振り返り驚いたように呟く。


 僕は、というと。少しだけ雨音にホッとしていた。

 雑音は出来るだけ多いほうが良い。無言の空間の中で息をするのが苦手だから。

 外で体育の授業をしていた生徒の驚いた声と、昇降口へと向かう足音が響きながら、数秒打ち付けられる雨を見続けた音無子先生は、こちらに向き直った。

「止むといいわね」

「そうですね」


 その言葉を最後に、奥にある金魚の入った水槽の空気を取り込むこぽこぽとした音と、時計の一刻一刻を告げる音がしっかりと耳に届くほどには室内に静寂が戻る。


 僕は、カップの中に入ったハーブティーを半分ほどは胃に入れることが出来たが、どうしても続きを飲めず、喉が詰まるような感覚に陥った。

 申し訳ない気持ちでソーサーにカップを戻すと、彼女は怒ることなく、こちらに微笑みかけた。


「残してもいいから」

「……すみません」

「謝らないで。でも、何かものを口に入れるのは大事よ。今日も、お昼ご飯まともに何も食べていないでしょう」

「……」


 音無子先生の眼鏡の奥の鋭い瞳が僕の状態を見抜いたことに驚いて身体が硬直する。

 図星だ。

 保健室に向かう前――つまり、昼休み――。

 弁当を作る気力も沸かず、コンビニで適当に選んだ幕の内弁当は砂粒を噛み締めるような味気ない食感で、一口も喉を通らなかったので心の中で平謝りしながらゴミ箱に全て捨てたのだ。


「音無子先生の言う通りです……。ここずっと忙しくて」


 じっとこちらを見つめる音無子先生の瞳は優しげで、忙しかった内容までは触れなかったが、突然、先生は立ち上がって、小ぶりの冷蔵庫の中身を確認して飲料ゼリーを取り出し、僕の目の前に差し出した。


「来てすぐ渡そうと思っていたの。これ、あげる。好きな時に飲んで。いらなかったら捨ててもいいから」


 言い淀む僕を待たずに、ソーサーの隣に置かれた飲料ゼリーに触れてみるとまだひんやりと冷たかった。


「……ありがとうございます」

 お礼を言うと、それを合図に一枚の紙も差し出された。


「あと、早退届も書いておいたから。これ担任の先生に渡して今日は帰っちゃいなさい」

「えっ!?」


 荷物はそこ、と指さされた長椅子のソファーに、まだ真新しい学校指定の黒いリュックが置かれてあった。


「それとも、私が早退届持って行こうか?」

「ありがとうございます。……でも、自分で行けます」


 職員室に行けば担任の仁志先生はいるだろう。保健室がある一階から二階へ上がればすぐに行ける。


 僕はなんとか自分を落ち着ける為にカップに口をつけてハーブティーを一口だけ飲み、ソーサーに戻すと、彼女は僕の様子を見て、陽だまりの真ん中にでも立っているかのように朗らかに微笑んだ。


「八代雅雪くん」


「……?」

 フルネームで僕の名前を呼んだ彼女は早退届の隣にハーブティーのティーバッグもおまけした。

「私は、ずっとここで待っているから。何かあったらいつでもおいでね」

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