#791~792 『石垣の家』
五歳年下の彼女、紗綾(さや)と付き合い始めて早二年になる。
数度のプロポーズは全てのらりくらりとかわされた。だが別に僕との結婚が嫌だと言う訳ではなく、家の都合があってもう少しだけ待っていて欲しいとの返事であった。
ある時、「折り入ってお願いがあるんだけど」と、紗綾から相談を受けた。内容はとても簡単で、親戚の家で不幸があったのだが、そこの家の片付けを一緒にお願いしたいとの事。もちろん僕は何の迷いも無く引き受けた。
さてその当日。向かった家は相当に奇妙なものだった。
それはかなりの大きな家なのだが、その家を取り囲むブロック塀の内側に、何故かもう一重の石垣が積まれてあるのだ。
石垣は職人の手によるしっかりしたものではなく、素人が悪戦苦闘して積み上げたであろうとても不安定なもの。地震でも来たならばすぐに崩れ落ちてもおかしくはない程度の粗末なものであった。
家には、僕と紗綾以外にもう一人、紗綾のお母さんが来ていた。
家はかなりの広さで、とても三人では片付けられないのではと心配になったのだが、良く良く聞けば実際の仕事は家の片付けではなく、この家の中から一通の書類を見付ける事なのだと言う。
「康平さんは黙って座っていてくれればいいから」とは、紗綾の母の言葉。
今回僕が呼ばれたのは、女二人だけだと何かと心細いからと言うだけの事らしく、「いや、僕もお役に立てる事あれば」と言えば、「ここに住んでいたお爺さん、少々後ろ暗い事していた人なので、あまりあちこち見られなくないんです」と返され、仕方無く僕は引っ込んだ。
居間の畳に座り込み、古ぼけたチャンネル式のテレビを点けて、見たくもない番組を眺めて時間を潰す。家のあちこちでは、紗綾とその母親の二人が家捜ししているであろう物音が聞こえた。
突然、ガラス窓の外に人の影が写った。それは縁側を通り越したその更に外、裏庭である。
それは短く刈った白髪の老人で、何故か妙に長い杖を突いている。そして僕がそれに気付いたのが向こうでも分かったか、老人は僕の方を向いて笑顔で会釈したのだ。
紗綾のご親戚の方かな? そう思ってガラス戸を開けたのだが、一体その一瞬でどうやって移動したのだろう、老人の姿は忽然として消えてしまっていた。
嘘だろう? 思いながらも戸を閉めて再びテレビの前へと向かえば、コンコンと戸を叩く音。見れば先程の老人が、縁側まで乗り上げてガラス戸に顔を押し付けんばかりにして僕を眺めながら笑っていた。
「うわあっ!」
思わず悲鳴を上げた。飛んで来る紗綾とその母。「どうしたの?」と聞かれ、ガラス戸を指差すも既に老人の姿は無い。仕方無く今しがた起こった出来事を二人に話せば、「それってどんな感じの人だった?」と問われた。
僕がその老人の容姿を話せば、紗綾とその母は「やっぱり」とでも言うような顔で頷き、「早くしなきゃ」とまた家捜しに向かうのである。
正直僕は、気が気ではなかった。またあの老人がどこからか来るのではと心細くなりながら待っていると、突然すぅと居間の襖が音も立てずに開いた。
「紗綾?」と聞くが応えは無い。気になって廊下へと出てみれば、やはり誰の姿も無い。
代わりにどこからかひそひそと声が聞こえる。見れば廊下の先の部屋の一室から聞こえるもののようだ。
僕は足音を忍ばせそっと様子を伺うと、そこはどうやら仏間らしい。紗綾と母がこちらに背を向け、何やら話し合っている。
「これで合ってるよね」
「大丈夫、前に一度見た事があるから覚えてる」
嬉しそうに言いながら二人が掲げて持っているのは、どうやら掛け軸か何かのようで。そこには良く見えないが家系図か何かが書かれているような、そんな印象のものだった。
ふと、仏間の遺影に目が行く。見れば比較的最近に飾られたのだろうとある遺影が、まさに先程縁側で見掛けた例の白髪の老人であった。
「後は康平さんにどう説明するかなんだけど」と、母。
「大丈夫、私から言えば何も疑わないと思うから」と、紗綾。
再び僕は足音を忍ばせて居間へと戻り、先程聞いた話については知らない顔をして過ごした。
さてその晩の事である。真夜中に町内放送が鳴り響き、火災が発生したと告げられる。
夢うつつでその読み上げられる住所を聞けば、それは今日の昼間に向かった例の石垣の家の辺りで、なんとなく不安に思った僕はすぐに車に乗ってあの家の方面へと向かった。
燃えていたのはまさしくその家だった。家はまるごと炎に包まれるようにしながら炎上し、その炎の真ん前には立ちすくむ人影が一つあった。
それは長い杖を突く背の低い老人のようで、その姿は他の野次馬には見えていないのか、誰もそれを助けようとはしていなかった。
二日後、紗綾から大事な用件があると呼び出された。
思った通りそれは僕からのプロポーズの返事で、紗綾は照れ笑いを浮かべながら「これからも宜しくね」と言うのである。
半年後、僕は同じ職場の違う女性と籍を入れた。あれから紗綾とは逢っていないのだが、風の噂で紗綾の家が全焼し、一家離散したとそう聞いた。
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