#787 『画鋲』
「これ、何ですか?」
私はその部屋の壁の一画を眺めながらそう聞いた。
「なんでしょうね……画鋲の痕かな」と、不動産会社の男性社員は気のなさそうな声でそう言った。
その部屋の壁は、その一面だけ小さな穴が穿たれている穴だらけの壁であった。
良く良く見ればそれは床から天井まで全てに乱雑な穴の痕があり、その穴のせいで白い壁が黒く見えてしまう程だった。
「なんかポスターでも貼ってたんでしょう」と、担当の男性は言う。隣の部屋まで続くのぞき穴とかじゃないんだから大丈夫と、訳の分からない理屈でその話は終わらされた。
結局私はその部屋を借りてしまった。但し、「この壁の部分は敷金に含まず」と言う念書だけは書いてもらっての事だった。
さて、引っ越しを終えたその最初の夜の事。私は熱い珈琲を飲みながらテレビのバラエティ番組を眺めていたのだが、ふとその耳に微かに聞こえるように、“ぽとり”と何かが落ちた気配がした。
なんだろう? なんとなくあの壁の辺りから聞こえたような気がしたのだが。
思って見に行けば、フローリングの床の一角に小さな金属製の画鋲が落ちていた。
特に洒落たものではない、昔ながらの金色に光る、平べったく丸い金属板の画鋲である。
どこから落ちたの? 思いながら壁を見るが、当然分かる訳が無い。仕方無くその画鋲はカウンターテーブルの端に置き、気にしない事にした。
だがその現象は度々起きた。一日に一回か二回、ぽとりと音をさせてどこからか落ちて来るのだ。
しかもそれは決まって例の壁の前。時には知らずにその画鋲を踏んでしまい、痛い思いをする事もあった。以降、私は部屋の中でスリッパを履くようになった。
壁には残りの画鋲は見当たらない。端から端まで見て確認し、「無い」と断言出来るものの、しばらく経つとまたどこからか“ぽとり”と落ちる。気が付けばカウンターに置かれた画鋲の数はざっと三十を超えていた。
ある時、もう百は超えたなと画鋲を眺めていた私は、気が付けばその画鋲を壁に向かって押し込んでいた。
大量の画鋲を片手に持ち、そしてもう片方の手で次々とその画鋲を壁に打ち込んで行く。
あっと言う間に画鋲は無くなるが、気が付けばいつも以上の数の画鋲が、足下に転がっていた。
“あぁ、これはもう無理だ”と私は思った。ここにいたら心が病む。そう思った私は引っ越し早々また別の部屋を探す決意をした。
――荷物が片付き、残すは部屋用のスリッパ一つと言うがらんどうな部屋の中、私は内見の時と同じ不動産担当者の男性に鍵を渡し、「お世話になりました」と告げた。
瞬間、背後でバラバラバラッと“何か”が一斉に落ちて来る音がした。
「今の……何ですか?」と私が聞けば、「何がですか?」とその男性は言って振り返る。
なんとなく、画鋲の意味が分かった瞬間だった。同時に私は、“あぁ、やっぱりここはもう無理だ”と本気でそう思った。
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