#783~785 『クローゼットの秘密』

 十歳の頃の事だ。私は交通事故に遭い、右足を複雑骨折して自由に歩けなくなってしまった。

 病院の先生からは、「これから数回、手術になるよ」と言われ、その覚悟も決めた。

 一度目の退院と共に、家が変わった。マンションから中古の一軒家への引っ越しだった。どうやらその家の先住者に私と同じ境遇の人がいたのだろう、部屋や廊下の各所に手摺りがあったり、介助用の浴槽があったりしたからだ。

 とりあえず現時点での私は、外は車椅子。そして家の中は手摺りに掴まっての歩行と言う生活。要するになんとか片足だけでの歩行は可能な状態であった。

 私の部屋としてトイレにほど近い六畳の個室を与えられた。入った瞬間どことなく嫌な気がしたが、気のせいだと思い無視する事にした。

 さて、引っ越し初日の夜。ベッドの横に置いた小型テレビで映画を観ていると、ミシミシ……とどこからか音が聞こえて来た。

 ふと気付く。部屋のクローゼットが、なんとなく膨らんでいるような錯覚があったのだ。

 ミシミシ……ミシ……と、そのクローゼットから先程の音が聞こえた。

 やはり内側から“押されて”膨らんでいる――と、察したその瞬間、「バチン!」とクローゼットのドアである蛇腹のレールが外れて音を立てた。

 私は咄嗟に、「お父さーん!」と叫ぶ。すると両親は慌てて部屋まで来てくれた。

 指を差し、泣きながら事情を説明する。父が「下がってなさい」と慎重にドアを開けるが、中には未開封の引っ越し荷物が詰め込まれているだけ。とても人が隠れられるような空間は無かったのだ。

 それから三日後、またしても同じ現象が起こった。だがやはり中を見ても誰もいない。

 更に二日後、今度はクローゼットのドアの下側のレールが全て飛んでしまうぐらいに派手に外れた。その瞬間、見てしまったのだ。その外れたドアの下側から覗く、人の素足を。

 今度こそ私は悲鳴を上げてベッドから転げ落ちた。

 すぐに両親が来てくれたものの、父はいつも通りに中を確認し、「誰もいないから」と言うだけ。だが今回は母が、「ここの中、全て確認するから」と言ってくれたのだ。

 父が出掛けて行った後、部屋に母がやって来た。そうしてクローゼットの中の荷物を全て引っ張り出し、その中の床、壁、天井を慎重に探って行く。だが――

「特に何も無いなぁ」と母。そして母は、「気休めにしかならないだろうけど、後でお札とかお守りとか買って来るから。このクローゼットの中に貼ってみよう」と言うのだ。

「私はお札が貼っているような部屋にはいたくない!」

 叫ぶように言うと、母はしばらく困った顔をした後、「じゃあ、リビングで寝る事にする?」と私に聞いた。

 その晩から私は、リビングのソファーベッドで寝る事となった。トイレからは多少遠いが、それでもあんな気味の悪い部屋にいるよりはずっとましだった。

 それには母も付き添ってくれた。床に布団を敷き、そこで二人で寝る事となった。

 さてその深夜。私はなかなか寝付けないまま暗いリビングでぼんやりとしていると、突然どこからか、ミシミシ……と言う音が聞こえて来た。

“あの部屋だ”と直感した。私はすかさず「お母さん」と呼び掛け母を起こす。すると寝ぼけ眼のまま母も、「あの音?」と察してくれた様子だった。

 ミシミシ……ミシミシ……バチン! レールの外れた音がする。そしてそれに続いて、バチバチバチンと次々にレールが飛び散る音。やがて、ぎぃ……と音がして、人の足が床を踏みしめる音となった。

 ずるずる……ぺたん……ずるずる……ぺたん……

“来る!”と直感した。それはどうやら母も感じたらしい。咄嗟に飛び起き、ソファーから私を力任せに引き摺り下ろす。

 ガチャ――きぃぃぃぃぃ――

 私が使っていた部屋のドアが開いた音。そして尚も、ずるずる……ぺたんと、何となくイメージだが片足を引き摺って歩いているような、そんな足音がする。そしてその足音の主は、廊下を伝って間違い無くこのリビングへと向かっている様子だった。

 母は咄嗟にリビングの照明のスイッチへと飛び付く――が、点かない。何度スイッチを押し込んでもリビングは依然暗いまま。

 足音は、リビングへと通じるドアの前で止まった。母はドアノブに飛び付く。そして今まさに下へと降りたドアノブを必死で上へと持ち上げ、「出て行きなさい!」とそのドア向こうの“何者か”に向かって大声で叫んだ。

 それから少しして、階段を下りて父がやって来る足音が聞こえた。

「どうした?」と、不機嫌そうに父は聞く。母は今しがた起きた出来事を父に話すが、「そんな馬鹿な」と取り合ってくれない。そしてその翌日、私は母の運転する車に乗って、あの家を購入した不動産会社へと向かった。

「いえ、あのお家でどなたかが亡くなったとかは全く無いです」と、不動産会社の担当者は即座にそう言い切った。

「しかしあの設備を見れば、以前はそう言った身体の不自由な方がいらっしゃったのでは?」母は聞く。

「確かにあの家の設備は、介護者用に特化されたものです。――が、実はあの家、そう言う方用に作られた特別な家でして、あの設備は最初からのものです。そして皮肉な事に、以前に住まわれていた方はその介護が全く必要ではなかった方ばかりです」

 そしてその担当者は、「病気にしろ事故にしろ、あの家でどなたかが亡くなった過去は一切ありません」と、はっきり言い切ったのだ。

 八方塞がりとなった。お札も利かない、しかもこの家では誰も死んでいないと言う事実。では一体、あの現象は何なのだと。

 母は少しばかりノイローゼ気味となり、私同様に食欲が落ちて行った。

 そしてある日の事、よせばいいのに母はあの怪異の部屋へと閉じこもり、何やらしているのである。

 心配になった私は足を引き摺りつつドアの前まで行き、「お母さん?」と声を掛けるが、「大丈夫よ」と心細い返事がかえって来るばかり。中で何をしているのかは、一切見せてくれないのだ。

 大丈夫かしら――と思った矢先だった。部屋の中から「ひぃっ」と母の声がして、私は慌てて部屋のドアを叩く。が、母は「中に入っちゃ駄目!」と厳しく言い、ドアを開けてくれない。

 ようやく母が出て来たのはもう夜も十時を越えた辺りだった。

 母はその手に小さなダンボールがあった。私は中身を聞くが、やはり母は答えてはくれない。

 夜半、父が帰って来たタイミングで、母は父と一緒に二階へと上がる。

 私は例の怪異の部屋を心配したのだが、母は笑って、「もう何も出て来ないから」と言うのである。

 実際、その夜は何も起こらなかった。だが両親の話し合いはかなりの熱を帯びているらしく、時折激しい口調を交えながら朝方まで続いた。

 父が家を出て行った。その翌朝の事だ。母は父を見送る事もせず、それどころか父の背に向けて大量の塩を振り撒き、追い払うかのように玄関を閉めたのだ。

「もう絶対に何も起きないからね」と母は言う。そしてその言葉は本当だった事を、私はすぐに実感するのである。

 それから私は三度の手術を経て、激しい運動は出来ないまでも、普通の生活が送れる程度には回復して行った。

 そうして迎えた二十歳の誕生日、母は「もういいかなって思ったから」と、あの部屋で起こった怪異について話してくれた。

 原因は、この家ではなく私達が持ち込んだ引っ越し荷物の中にあった。

 母があの日、部屋の中で調べていたのはその手付かずのままの荷物の方で、そしてそれはクローゼットの奥の方の箱から見付かったらしい。――見ず知らずの人の、“位牌”だ。

 元より両親は宗教嫌いで、家には仏間も仏壇も、そしてその類となるものは一切無かった。

 だが私の部屋のクローゼットに押し込んだ箱の中には、その位牌があったのである。

 母は父を問い詰めた。そして母は激怒した。位牌は、父の愛人だった女性のものだったらしい。

 ではあの晩、片足を引き摺って出て来たのはその女性の霊なのかと訊ねると、母曰く、「彼女も事故で大きな怪我をした人だったから」と教えてくれたのだ。

 だがその事故の後、彼女は息を引き取った。身寄りの無い人だった為、父がその死を看取り、葬儀を挙げたらしいのだ。

「あなたを轢いたのがその女よ」と、母は言う。私はその全てに納得が行った。

 あれから両親は、離婚もしないまま別居を続けている。母曰く、「死ぬまで金せびり取ってやる」と言う事らしい。

 私は結局、また以前の部屋へと落ち着き、今もそこで生活している。

 怪異は全く起こらなくなったのだが、時折、父の愛人だった女性の事を考える。もしかしたらその女性は、私に謝ろうとして出て来たのではないだろうか。最初は憎くて私を車で跳ね飛ばしたが、後になって後悔をして、あんな形で出て来たのではないだろうか。

 全ては推測でしかないのだが、私はなんとなくそんな風に思えて仕方無いのだ。

 思った瞬間、突然背後で、ミシミシ……ミシミシ……と音がした。

 振り向くと同時に、「バチバチ、バチン!」と、クローゼットのドアのレールが全て弾け飛び――ドアが開いた。

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