#766~767 『でろっこや』

 山形県N市に、A温泉と呼ばれる温泉施設がある。

 但しそれは一つだけではなく、旅館で十四。公衆浴場で三つも存在していると言う、町全体がA温泉であると言っても過言ではない、大きな温泉街なのである。

 これは昭和十年代の頃のお話し。当時はその公衆浴場ももっと多くあった時代の事。

 この話を教えてくれたHさんは、生まれも育ちもその地域で、毎晩その湯に浸かって育って来た。

 ちなみに毎晩と言うのは誇張ではない。なにしろその地域に住まう人達の家庭には、風呂と言う設備が存在していない。要するに誰もが外に出て、温泉に浸かってから家に帰るのだ。

 Hさんには十一人もの兄弟がいる。当時のHさんは小学生だったのだが、夜ともなればいつも上の兄達と一緒に風呂へと行くのが常であった。

 普通ならば夜の出歩きはよろしくない行為ではあるが、風呂となると話は別で、それを逆手に取って夜に家を出、近場の公衆浴場を目指すのが当時の楽しみだった。

 夜の温泉は、どちらかと言うと肝試しに近かった。ご多分に漏れずそう言う場所には「出る」と噂されているのが常で、わざと誰も来ない深夜を目掛けて風呂へと行くのである。

 さて、そう言う場所に「出る」と言う存在は割と現実味を帯びており、かつてその温泉を作る際に幾人かの“人柱(ひとばしら)”が立てられたと言う。その存在が今も息衝いて「出る」と言われているのだ。

「夜、だぁれもおらん風呂ん中に人の気配ばしたら、それは人柱になった人の怨念だっつぉ」

 そう言って兄達は風呂に入りながらHさんを脅す。現に、真夜中に風呂で人の影を見た事は幾度もあった。だがそれは単に夜遅くに風呂に来た客ばかりで、人柱となった人の霊が入っていたと言うような事実は一度も無かった。

 ある晩の事、Hさんは兄達とはぐれて風呂に入れずにいた。するとその十一人兄弟の一番の上の兄が、「一緒に行くか」と声を掛けてくれた。

 その一番上の兄とは二十二歳も歳が離れており、父親のいない家庭においてその長男は実質、父親のような存在の人だった。

 Hさんは、滅多に話す事などない兄と色んな事を話した。そうして風呂へと着き、中に入ると、脱衣所に誰の服も無かったと言うのに人が入っているのが湯煙の中に見えた。

「人柱様だんべぇ」と、兄は笑う。やはり兄も同じ事を言うのだなと妙な部分で感心をしていると、突然湯煙のその向こうから“もう一人”の人影が現われた。

 それにはHさんもその兄も息を飲んだ。身の丈が異常なのだ。ぱっと見、八尺はあるのでは思える程の高身長。しかもその横幅はと言うと、まるで肥満に見えるほどの大きさ。思わず悲鳴を上げそうになるHさん、兄が「声出すな」と小声で言ってくれなければ大声で湯船から飛び出していた所だった。

 その大きな人影は先にいた人影の前までゆっくりと近付き、その両手で頭を掴んだかと思うと大きな口を開けてその頭部を飲み込んだ。

 ずるり――ずるりと、その人影を丸呑みする音が聞こえる。兄は、「あれが消えるまで動くな」と言ってHさんを止める。

 ちなみにその地方の浴場の湯は熱い。慣れてない人は水で薄めた湯をかけ湯だけで出てしまうぐらいに熱いのだ。そんな熱い湯の中、Hさんはくらくらとしながら、人を飲み込む異形の仕草を眺め続ける。やがて全てをその腹の中へと収めた異形は、またしてもゆらりと湯煙の中へと消えて行ってしまった。

 完全に湯あたりを起こして兄に助け出されるHさん。そうしてふらふらとしながら家に帰れば、既に全員が寝ている家の中、「起きろ!」と長男は皆を叩き起こす。

「もう当分は、××浴場には行くな」

 兄のその発言に、「なんでじゃ」と他の兄達が不満を漏らす。

「“でろっこや”が出た」

 言った途端に皆の声が止む。どころかそれ以上何の質問も無いかのように、誰もが小さく頷いてまた布団に戻るのだ。そしてそれを見ていたHさんだけ、意味が分からずにいた。

 それから少しして、町中で妙な噂が流れ始めた。「“でろっこや”が出た」と言う、そんな噂である。

 同時に、「どこそこの湯はもうしばらくは駄目だ」とか、「新しい人柱様を呼ばねば」と言う話もささやかれた。どうやらその近隣のあちこちの浴場で、その“でろっこや”と呼ばれる何かが出没しているらしいのだ。

 気が付けば通える湯はかなり限られるようになってしまった。

 Hさんは遠くの湯に通うのが嫌で、「近くの湯に行きてぇ」と兄に言う。すると、「なら行くか」と、前に長男と一緒に“でろっこや”を見た風呂へと向かうのだが、何故か湯の匂いが違っていた。前と比べて妙に臭いのだ。

「何でじゃあ」と兄達に聞けば、「人柱おらんくなったせいじゃ」と返って来る。やはり意味が分からない。

「でろっこやちゅうのはなんじゃ?」

 聞くと、「知らん」と兄達は言う。ただ、時折この辺りの温泉施設に現われては、人柱様を喰らって消えるものらしい。

 やがて周辺の湯の性質や匂いがまた元に戻った。どうしてそうなったかを聞けば、「新しい人柱様が来たんじゃろ」と言う。やはりどうしても意味が分からない。

 それから少しして、先祖の法事で山の上の寺へと行った際、そこの寺に掛かっている地獄絵図を見てHさんは息を飲んだ。

 そこに描かれている獄卒の絵が、まさにあの晩、湯煙の中で見た“でろっこや”にそっくりだったのだ。

「ありゃあ鬼か?」とHさんが長男に問うと、あの日の晩と同じで、「声に出すな」と小声でささやかれた。

「声に出して良いもんじゃないっけ、教えてねぇんだ」と兄は言う。

 結局Hさんは、その事の内容を全く知らされないままだったらしい。

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