#723 『レンガの穴』

 家族と一緒に旅行へと出掛けた際の事。

 とある博物館へと立ち寄った。妻と九歳の息子はその博物館前の噴水に夢中になっており、僕だけその館の横の壁にもたれ掛かっていた。

 ふと、壁の一部に張り出たレンガが一つあるのを発見する。なんでここだけ出ているんだろうと指で摘まめば、それはぐらぐらと揺れ簡単に抜け落ちそうな感触があった。

 それは単なる出来心だった。すっと引き抜けばそこには空洞が見え、その向こうにはどこかの街並みが広がっていたのである。

「なんだこれ……」と、僕はその穴を覗き込む。するとその目の前に男の人が現われ、びっくりした顔で僕に向かって何かを語り掛けたのだ。

 咄嗟に日本語ではないと感じた。そしてその穴から覗き込む顔もまた、日本人のそれではない。

 向こう側の人はしきりに何かを質問している――が、何一つとして聞き取れない。するとその人は何かを手で持つ動作をし、その穴に嵌めろとでも言っているような仕草をする。

 僕は、「これか?」と差し出せば、男はそうだとばかりに頷く。そして僕がまたそのレンガを穴に押し込めば、それはするりとそこに嵌まった。

 向こうで息子の呼ぶ声がする。僕は分かったとばかりに手を挙げ、今嵌め込んだレンガを見るが、もうその頃にはどれがそのレンガなのか見分けが付かなくなってしまっていた。

 息子の所へと辿り着き、今しがたの事を二人に話そうかと思って背後を振り向く、僕は驚く。さっきまでいた外壁の部分はまさに壁そのもので、裏側はどこかの街並みどころか、植え込みの木々が並ぶ何もない空間だったのだ。

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