#682 『尾行されている酔客』
私は都内の某所でバーを経営しているのだが、ある晩、妙な男性客が店にやって来た。
どうやら既に酔っ払っているらしく、赤ら顔でカウンター席へと座るや否や、ウォッカのストレートを注文する。
グラスを持つ手は小刻みに震えており、ひどい緊張が覗える。
「何かありましたか?」と聞けば、男は苦笑を漏らしながら、「女に追われている」と言う。
「うらやましい限りじゃないの」と、他の客がひやかす。すると男は、「冗談じゃねぇぞ」と、感情的な声で言うのだ。
「別に殺される訳じゃないんだろ」と、更に他の客がそう聞けば、男は何も答えない。
「お客さん、どこから来たんですか」
私が何気なしにそう聞けば、「北海道」とぶっきらぼうに言う。いや、まさかそんな遠い所からと笑えば、男は嘘じゃないぞと大真面目な顔をするのだ。
何でも男は、とある女から逃げ回り、転々と住む場所を変えているらしい。結局ウォッカを二杯、立て続けに呷り、客は帰った。
「何だろうな、あれ」皆は笑う。私自身もその時はそんな程度の反応だった。
それから三日後、前回の時と同じ顔触れの客が揃っている所に、今度は妙な女性客がやって来た。熱い夏の最中だと言うのに、長い厚手のコートを羽織り、それを脱ぐ事もしないままカウンター席へと着き、ウォッカのストレートを注文するのである。
「男を捜してるんだけど」と、その女性客は言う。
同時に皆の顔色が変わった。なんとなくだが、数日前の男性客の話を思い出したのだろう。
「どんな方です?」と、私はわざとらしく聞く。すると女性は一枚の写真を差し出し、「ここに来た筈です」と、断固とした口調で言うのだ。
「あぁ、来たよ」と、常連客の一人が言う。続けて、「なんか北海道に帰るって言ってたぞ」と返せば、勢い良くその女性客は立ち上がり、「嘘吐き!」と大声を上げたのだ。
「嘘吐き! 嘘吐き! 大嘘吐き!」
さんざ騒いでその女性客は出て行った。飲み逃げだと言う暇も無い、誰一人としてその剣幕に押されて動けなかったのである。
怪異ではないのだが、「あまりにも怖い想い出なので」と、そのバーのマスターに言われ、掲載に踏み切った。
もしかしたら今もまだ例の男性客は、南へと向かって逃げ続けているのだろうか。
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