#675 『怪音』

 とある初夏の事だ。

 買い物を終えて自宅マンションへと帰り、エントランスをくぐってエレベーターの前へと移動する。

 エレベーターはのろのろと五階から降りて来るのだが、ようやく一階へと辿り着いて私がそれに乗り込んだのと同時に、エントランスから猛ダッシュで駆けて来る足音が轟いた。

 いつもならば人の気配があればエレベーターのドアを開けっぱなしにして待つのだが、何故かその時の足音に僅かばかりの異常性を感じ、私は慌てて“閉”のボタンを連打した。

 ドアが閉まり切って上昇が始まると同時に、足音がドアの前まで差し掛かった感があった。

 そして唐突に打ち鳴らされる打撃音。――ドン、ドン、ドンッ!

 駆けて来た何者かが、待たなかった私に怒ってドアを叩いているのがなんとなく分かった。

「怖い」と言う気持ちと同時に、「待たなくて良かった」と言う思いが込み上げる。エレベーターは無事に四階へと辿り着き、私は溜め息を吐きながら降りる。

 ――カンカン、カンカン、カンカンッ! 遠くにそんな音が響いている。私は咄嗟に悟る。さっきのエレベーターのドアを叩いた人が、私を追って階段を駆け上がって来ているのだと。

 もはや確実に、“異常”だと思った。私は込み上げる悲鳴を飲み込み、震える足で廊下を走り、家のドアノブに鍵を差し込む。

 見付からないように、見付からないようにと祈りながら鍵を回すが、手が震えて上手く回らない。すると背後で、四階へと辿り着いたかのような足音が、「ガン!」と響いた。

 間に合った――と、後ろ手にドアを閉めると、少し遅れて「バンバンバン!」とドアが叩かれた。その振動はノブを握る私の手にまで伝わって来るぐらいだった。

「いやあぁぁぁぁぁっ!」

 叫び、チェーンを嵌めた上で、ポケットから取り出したスマートフォンで電話を掛ける。そう、警察に――だ。

 ややあってマンションの前にパトカーが二台停まる。インターフォンを鳴らされ、恐る恐る出てみると、玄関先には複数人の警察官の姿があった。

 玄関前で様々な質問を受けている途中、一階の管理人室へと呼ばれ、私は出向く。そこで監視カメラの映像を見る事となったのだ。

 映像は私がエントランスをくぐる辺りから始まった。

 だが、私を追う人の姿はどこにも無い。どころか私が家の玄関へと消えた後、外から玄関を叩く人の姿さえ無かったのだ。

 これはもう、私は誰からも助けてもらえないなと思った時だった。

「なんだこれ?」と、警官の一人がモニターを指差す。私の通報で駆け付けて来てくれた警官達の後を追い、小柄な細身の女性がぴったりとその後ろを追って来ている姿が映像に残っていたのだ。

 女性は警官達と私の家の玄関まで来て、警官達の背後に身を潜めた。そして私がそこで質問を受け、管理人に呼ばれて下へと向かった後、その女性が私の部屋の中へとこっそり忍び込んで行った姿が映っていた。

 その後、警官達が私の部屋の中を調べるが、そこには誰の姿も無かったと言う。

 もちろん私は急いでそこを引っ越した。

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