#672 『家を出る』

 夫が事故で亡くなったと知らされたのは、もう間もなく昼と言う時刻。

 それは夫の勤める鉄鋼会社から。自宅から会社までは徒歩でも僅か十数分と言う距離。私はすぐに自転車に飛び乗り、その会社へと向かった。

 夫の遺体はまだそのままであった。――が、驚いたのはその隣にもう一人の夫が座り込んでいた事だった。

 周囲は、「痛ましい事故だった」とか、「会社側からも極力の支援と」とかうるさい中、夫はいつも調子で「すまん、ミスった」とか、「娘の水樹に謝っておいてくれ」などと、へらへらと語るのだ。

 私はすぐに周囲の人を遠ざけ、「しばらく夫と二人きりに」とお願いした。そして夫といくつか会話をし、その場で別れた。

 悲しくないと言うと嘘になるが、最後に少しだけ会話が出来た事を嬉しく思った――のだが。

 家に帰れば夫は普通にそこにいた。先程と全く同じ様子である。私はそれを無視するように努めながら家事をするのだが、夫はテレビが観たいのか、懸命に持てないリモコンを操作しようとしていた。

 そんな感じで亡くなった筈の夫との新しい生活が始まり、あっと言う間に数年が過ぎた。

 やがて私に再婚の話が持ち上がり、とうとうこれは言わなきゃいけないだろうと、夫を目の前にして「今度こそお別れしたいの」と切り出した。

 夫はまず、自分が見えていた事に驚き、そして今度は私の再婚を悲しそうな目で祝うと、家を出て行ってしまった。

 それっきり家の中に夫の姿を見る事は無くなったが、時折娘の水樹が、「向こうの公園のブランコにいたよ」と、こっそり私に教えてくれるのである。

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