#671 『ポスターを剥がす音』
昭和五十年代頃。当時、関東から大阪へと引っ越しする予定であった、笛木さんご夫婦の話。
――大阪への転勤が決まり、妻と一緒に下見がてら大阪の梅田へと旅行に出かけた。
既に社宅は用意されていたのだが、さすがに妻の仕事で使う為の工房までもは準備はしてもらえない。従ってそこは自分達で探さなくてはならないのだ。
現地でとある一軒の不動産会社を訪ねた。利用目的を話し、どこか良い所はありませんかと聞けば、「何軒か案内させます」と、三十代ぐらいの若い男性社員さんを紹介された。
車に乗り込み、街中を走る。男性の、「どちらお住まいですか」の問いに、素直に埼玉県ですと答える。するとその男性、「今日は観光ですか?」とか、「お知り合いの方と逢う予定は?」と、我々の予定を聞いて来るのだ。
「良い物件ありますよ」と、ハンドルを切る。そして思った以上に長い時間を経て、その場所へと辿り着く。打ちっぱなしのコンクリート壁の、大きな家だった。
中へと入ると、最初に目に付いたのがポスターであった。少し前に流行った、人気の歌手グループのポスターである。そんなものが玄関を入ってすぐの所に貼られているのだ。
見れば廊下と言わず部屋の中の壁までも、様々なポスターが貼られていた。しかもそれはどれも統一性が無く、映画のポスターやら子供向けアニメのポスター。中にはどこからか剥がして来たのではないだろうかと思えるような、交通安全のポスターや選挙ポスターまでもが貼られてある。
――カリカリ――カリカリ――と、どこからか物音が聞こえた。
「誰かいるんですか?」と僕が聞けば、「あぁ、もう今日には引っ越しして出て行くんで」と、男性は笑う。彼が言うには、「ポスターでも剥がしてる音でしょう」との事。
それにしてもおびただしい数のポスターである。ひどい部屋になるとそれは窓にまで貼られていて、向こうから射し込む光がポスターを透かして見えていたりする。
「これ、比較的最近貼られたものだよね」と妻。理由はどのポスターも色褪せていないからだと言う。
「すいません、ちょっと電話して来ます」と、二階を案内してくれている最中に、男性が部屋を出て行く。するとまたどこからか、カリカリ――カリカリ――と、爪で何かを引っ掻くような音が聞こえて来る。
「おかしいよね」と、妻。さっきからいたる場所でその音が聞こえるのだが、家の住人とは一度も顔を合せていない。それに家のどの部屋を見ても、ポスターがあるだけで何の家具も置かれていないのである。
「なんじゃそら! 俺ははよ来い言うとんのじゃ!」微かだが、案内してくれている男性の声が聞こえる。どうやらこの家の電話を使っているらしいのだが、口調が先程と違って別人である。
「やっぱりおかしい」と、妻が部屋の壁まで歩いて行く。「ポスターを剥がす音って……どのポスターも画鋲で留めてるだけじゃない」と、その中の一枚を剥がしてめくってみれば、壁には油性ペンで書き殴ったのだろう、荒々しい“たすけて”の文字。
階下では「はよう来いよ」と言って、受話器を置く音が聞こえる。
僕は咄嗟に妻の手を引き、階段横の部屋へと隠れる。そして男性が二階へと登って来て、我々の姿を探している最中にそっと階下へと降り、小走りに玄関へと向かった。
「待てやこら!」と、二階の吹き抜けから声が降って来た。とてもじゃないが待てる余裕など無い。私と妻は靴もはかずに外へと飛び出て必死に走り、なんとか行方をくらます事に成功した。
その後、何度も妻と警察へと向かおうかどうかで話し合ったのだが、結局何の証拠も無いままでは取り合ってもくれないだろうと言う事で落ち着いてしまった。
後日、僕は会社で転勤を断り、嫌な顔をされながらもそれは承諾された。
あれっきり大阪へと行く事は無かったが、例の不動産会社は今もそこにあるのか、時折気になる時がある。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます