#670 『車中の老婆』

 私の職場の窓からは、外の駐車場が見える。

 いや、私の職場からと言うよりは、私の職場の机の前の窓からしか駐車場は見えない。要するに新人に割り当てられる残念な窓際の席である。

 ある朝の事だった。いつも通りに窓を開けて外の空気を入れていると、なんとなくいつもと雰囲気が違うような気がした。

 何かあったかな――と思って目を凝らせば、外に停まる車の一台に、人の影が見えるではないか。

 誰かいるな。その時は、そんな程度だった。だが三十分経っても一時間が経っても、人影は依然としてそこにある。気になった私は自動販売機で水を買う振りをして、外へと出て行った。するとやはりその車の中には人がいて、しかも寝ているには少々様子がおかしく、大口を開けた老婆がぐったりと横の窓に頭を付けながら寝ているのだ。

 季節は初夏である。これからもっと気温が上がる筈。このまま寝かせておいて良い筈はないと、私はお節介なのを承知で、その駐車場の敷地内にある工場へと向かった。

 すぐにその車の持ち主が現われた。四十代程の男性である。私は慌ててその人に、「車で誰かが寝ています」と告げると、「そんな訳はない」と一緒に見に来てくれる。だが――

 いない。さっきまで確かにいた筈なのに、車の中の老婆は消えていなくなっているのだ。

「それはどんな人でした?」聞かれて私がその老婆の容姿を詳しく話すと、男性は顔色を変えて車に飛び乗るではないか。

 後日、昨日の男性ともう一人、隣の会社の社長である方がうちの会社へと訪れた。

「おかげで母は一命を取り留めました」と、男性は深々と礼をした。続いて隣に立つ社長までもが、「家内を助けていただき、誠にありがとうございました」と、涙ながらに言うのである。

 要するにそこの会社の社長夫人である方が、自宅で様態が悪くなり倒れた。だがすぐに発見が出来たおかげで助かった。――と言う話のようである。

 人を助ける事が出来たので結果的に良かったのだが、どうして私の所に現われたのだろうと、そこだけが不思議な所である。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る