#665 『街路樹の人影』
家からバス停までの道筋に、いつも同じ人が立っている。
女性だ。黒のワンピースを着た細身の女性。そして常に黒の日傘を差している為、顔は見えない。
いつの頃からだろう、朝だろうが夜だろうが必ずそこにいる。歩道と車道を分ける縁石沿いに銀杏の木が等間隔で並んでいるのだが、とある地点の木と木の間に、車道側を向きながら立ちすくんでいるのだ。
僕は密かに、あれは自分にしか見えない存在だと気が付いていた。何故ならばその女性は真冬でもノースリーブで、常に同じ服装しかしていない。そしてその女性の事を噂する人が、我が家の家族を含めて誰もいないからである。
本音で言えば僕的にその道を通りたくはない。だがバス停まで別の道を迂回しようとすれば数倍の距離を歩かなくてはならない以上、我慢をしてその女性の背後を通り過ぎる毎日なのだ。
そしてある日の事。いつも通り早朝にその道を歩いていると、何故かその日に限って女性は車道ではなく歩道側の方を向いて立っていた。
嫌だなぁと思いながら通り過ぎる。そしてバス停に立ち待っていると、目の前を通り過ぎて行く車のガラス窓に、僕と“もう一人”の姿が写し出される事に気付く。日傘を差した、黒いワンピースの女性だ。
最悪な事にその日は一日、どんな鏡であれガラス窓であれ、見れば僕の背後にその女性の姿があった。――憑かれた、と僕は察した。
仕事の終わりに、僕は真っ直ぐ帰りたくなくて某ファストフード店へと向かった。すると僕の真向かいに、例の日傘の女性が座って来たのだ。
「お礼を申し上げたくて」と、傘で顔を隠した女性は言った。
僕は気が付かない振りをしながら黙っているのだが、女性はまるで気にも留めず、「いつも気にしていただいてありがとうございました」と続けるのだ。
「明日、出ようと思っております」
最後に女性はそう言って消えた。
後日、そこを通ると例の日傘の女性の姿は無かった。
結局あの女性は何者だったのだろう。思いながら彼女が立っていた辺りをそっと眺めれば、そこには誰かに踏まれて潰れたのだろう、大きなカタツムリの殻が砕けて落ちていた。
「まさかね」と、僕はそこを立ち去った。以降、女性の姿は見ていない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます