#663 『川が止まる音』
私がまだ小さかった時の事なので、昭和三十年代の終わり頃だっただろうと思う。
当時私は、栃木県にある過疎の町で暮らしていた。家は集落から少し離れた場所にあり、家の裏手には川が流れている。
したがって、家の中にいると絶えず川の音が聞こえて来ていた。暮らしの中には常に、川の音があったのである。
同時にそれは、若干の恐怖もはらんでいた。私達は物心付く前より、「川の音が止んだらすぐに仏間に入れ」と、そう教わっていたのだ。
理由は分からない。だがそれは家の中での鉄の規則であり、祖母も父もその事についてはとても厳しく言っていた。
ある時、とうとう姉がしびれを切らし、「川の音が止まるとどうなるの?」と、父に詰め寄ったのだ。すると普段は温厚な父が、「聞いたら駄目だ」と、怖い口調で言ったのだ。
「話して良いのは、川の音が止まったら仏間へ行け。それだけだ」
そしてその件に関しては、家の外の人にも言ってはいけないのだと言う。
意味が分からない。だが、ただそれが子供心にとても怖かった。そしてとある晩の事――
それはとても不思議な感覚だった。まず最初に、周囲に満ちた“空気”が固まるようなイメージがあった。そしてそれはすぐに来た。
さぁぁぁぁぁ―― と、当たり前に聞こえて来ていた川の音が、不意に無くなったのだ。
同時に、バンとドアの開く音。目の前には血相を変えた姉の姿。
「仏間に行くよ!」言われて私は姉に続いて部屋を飛び出す。階段を駆け下り仏間の戸を開ければ、そこには既に祖母を除く全員が集まっていた。
「おばあぁちゃんは?」聞けば父は「すぐに来る」と言い、しゃべるなと言わんばかりに人差し指を立てて見せた。
祖母は遅れてやって来た。手には三本の巻物。それを仏間の入り口に垂れ掛けると、三巾の掛け軸となった。
それは、竹林、山、飛ぶ鳥の絵の掛け軸で、何を意味しているのかは分からない。だが祖母はそれで仏間の入り口を塞ぐと、仏壇の前に座って数珠を鳴らしながら、その声が聞こえるか聞こえないかぐらいの小声で念仏を唱え始めた。
それは長い夜だった。途中、母が「寝ていいよ」と言うので、姉と私は抱き合うようにして眠った。
起きると、まだ全員がそこにいた。同時に川の音が戻っている事に気が付いた。
みしっ――みしっ――と、仏間の前の廊下を“誰か”が通って行く足音がする。
それが過ぎてしばらくすると、「出てった」と祖母は言い、聞いて誰もが深い溜め息を吐き出した。
それから少しして、家の近辺に高速道路の高架橋が出来るとかで、立ち退き命令が出た。
父はそれをすんなり受けて、家からほど近い場所に新しい家を建て、引っ越しをした。
立ち退いて数年後、とうとう高架橋の建設工事が始まった。だが依然として元の我が家はまだそこにあった。
その頃には、我が家は地元でも評判の幽霊屋敷となっていて、仏間に下がった“四本の掛け軸”の噂は、私の耳にも届くようになった。
だがそれも僅かの間で、高架橋に桁が渡される頃には取り壊されて無くなった。
今以て、あの晩に起きた事については誰からもその真相は伝えられていない。
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