#661 『影に名前を聞かれた話』
終戦後、間もなくの頃の事。
私と、二つ上の兄とで、親元を離れて東北の親戚筋の所に住んでいた。いわゆる疎開と言う奴だ。
近所に住む同年代の子供は、いつも私達兄弟を「東京モン」と馬鹿にするので、滅多に口を利く事もなく、常に二人で行動していた。
その当時の我々の遊び場は、家の裏手にある工場だった。
工場は何やら軍事的なものを作っていた場所らしく、戦争の終了と共にその役目を終えたのだろう。機械は全てそのままで、人だけがいなくなったような感じだった。
ある日の夕暮れ時の事。鍵が厳重に閉まる棟があるのだが、僕らは悪戯半分に窓ガラスを叩き割り、中へと侵入した。そしてその棟の南端まで来た時、兄が「だれかいる」と立ち止まった。
見れば確かに、窓から射し込む夕日に照らされ長く伸びる影が二つ。床に映えている。
だが肝心の“人”の方がいない。どうやら機械の設備の何かが陽の光に当たり、人の影のように見えているだけらしい。僕と兄は、「どれがそう見えてるんだ?」と辺りを探し回ったのだが、どうにも該当するようなものが見当たらない。
そうこうする内に、今度はその影が消えてしまった。これは窓の外の何かではないかと思ったのだが、窓から覗く外の景色は相当な高さがあり、とても背伸びをして誰かが覗き込めるような場所では無かったのだ。
それから僕と兄は毎日のようにその棟へと忍び込んだ。そして毎日のように、その人の影のように見える何かを懸命に探し回った。だがどうしてもそれに当たるものを見付けられない。
そしてある夕暮れ時の事。いつも通りにその棟へと入り込めば、例の影のある場所の近くで突然声を掛けられた。
振り向けばそれは作業服姿の男性二人で、「ここで何をしている?」と、強い口調で咎められた。
「どこの学校? 名前は?」有無を言わさず僕らの素性を聞いて来る。仕方無しに僕らは素直にその事を話せば、「何をしにここに来た?」と聞かれた。
兄がそれに答えた。いつもあの辺りに人の影が見えると告げると、その作業員二人は顔を見合わせ、「そこでちょっと待ってなさい」と、機械の裏側へと向かって行った。
そうして二人の姿が消えると同時に、いつも通りの場所へと二人の影が現われた。
「こんな感じか?」と、男性の声が聞こえる。「そうです!」と、僕らは驚いて返事をすると、向こうで男性二人の忍び笑いが聞こえて来た。そしてそれっきり、二人からの応えが無い。何事だと思って兄と一緒に見に行くと、もうそこには誰の姿も無く、ただ人の影が伸びているだけだったのである。
僕らは飛んで逃げ帰った。そしてその狼狽振りを見て、叔父と叔母が理由を訊ねる。僕らがしどろもどろに説明すると、「なんてぇ所で遊んでんだ」と、こっぴどく怒られた。
これは後で聞いた話だが、あの工場が閉鎖したのは終戦のせいでは無かったと言う事。だが本当の理由は結局、教えてもらえなかった。
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