#659 『人じゃない奴だ』
高校時代の事だ。バイクの事故で死にかける程の怪我を負った。
その時の記憶はまるで無い。気が付けば僕は身動きが取れない状態で、ベッドに縛り付けられていた。
その当時の様子をどう表現して良いものか迷うのだが、毎日がまるで夢の中か、もしくはシンナーでラリった状態であるかのような、そんなとても曖昧な状態だった。
これは後で聞いた話だが、僕の意識が戻らなかったのは延べ一週間程だったらしい。
ようやく目が覚めても脳のダメージが相当なものだったのだろう、しばらくは植物状態のまま朦朧としていたと言う事だ。
その朦朧としていた時の様子は、なんとなくだが微かに覚えている。入れ替わり立ち替わりで人が来て、僕の顔を覗き込んでいたような気がしていた。
そうして僕がその状況をようやく“現実”として意識が出来るようになり、最初に感じた光景は、母の怒った声だった。
「何時だと思ってるの? 出て行ってちょうだい!」
深夜だと思う。病室は真っ暗で、廊下から漏れ出て来る明かりでようやく周りがうっすらと感じられる程度。
病室の入り口に“誰か”が立っていた。母の怒る声が続き、その誰かが立ち去った。それだけの記憶。
それから母は度々その“誰か”に怒っていた。
「食事中だから後にして」とか、「もういい加減、家に帰ったら?」とか、都度その内容は様々だった。
強烈だったのが、僕の排便時の時だ。情けない話だが当時の僕はまるで身動きが取れない状態で、排便はそのベッドの上で行われていた。要するにおむつに出た便を、母が換えてくれていたのだ。
「今、何しているのか分かってるでしょう? 出て行きなさい!」と、母が怒鳴る。その背後のカーテンの隙間から、誰かが覗いていた。
女だと、僕は思った。それからはその“誰か”を意識するようになった。なにしろその女は、僕の全く知らない人だったからだ。
その頃の僕は、喋る事も出来なければ筆談をする事もままならない。ただ黙って母の差し出す食事に口を開け、何も考えられないままに無益な一日を過ごすだけ。だがある時、母が何かの用事で僕の周りにいなかった時があったのだが、その時に僕の横に立っていたのが例の女であった。
やはり知らない女だった。痩せぎすで顔色の悪い、陰気な感じの女である。その女が顔に笑みを貼り付けて、ずっと僕を見下ろしているのだ。
そんな状態が続いたある日、ようやく僕は喉の奥から“音”を発する事が出来るようになった。
喋れるようになるのはもっと後の事だが、その女の事を母に伝える事だけは出来た。
「しらないひと」絞り出される僕の声を、母は理解してくれた。
母は憤慨して、「次に来たら警察に突き出す」と息巻いていたのだが、結局その女は二度と顔を現わす事は無かった。
それから数十年が経ち、そんな出来事も記憶の彼方へと過ぎ去って言った頃。僕は会社帰りに轢き逃げにあったらしく、気が付けば病院のベッドの上だった。
目を覚ました僕に、妻が複雑そうな顔で笑いかける。
「無事で良かった」とは言うものの、何故かそれが本位ではないような印象を受ける。
その日の夕方頃の事、ベッドの横に“誰か”の気配を感じる。そっと目を開ければ、数十年前と全く同じ姿形の例の女が立っているではないか。
「ちょっと、もう面会時間過ぎてますよ!」と、病室の入り口から妻の声。同時にその女は、会釈もせずに部屋を出て行った。
「ねぇ、あの人誰なの? あなたが眠っている間、いつもここ来ていたんだけど」
それはあの日の状況ととても良く似ていた。僕は声を絞り出すようにして妻に言う。
「あれ……人じゃない奴だ」
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