#658 『井戸を覗く人々』

 詳細は出せないが、北関東のとある廃村での出来事。

 ――同じ趣味を持つY氏と一緒に、T集落と呼ばれる廃村へと向かった。

 夜中に出発したので、予定通り夜明け前には到着した。朝日に染まるT集落をカメラに収めたかったのである。

「濃霧だ」と、車を降りたY氏は言う。

 確かに凄い霧だった。まだ夜明け前と言う事もあり、視界はとんでもなく悪い。

 それでもなんとか見当を付けて山を登り始めた。やがて集落の入り口であろう地蔵尊が見えて来た。

 白々と明け始める闇。光を受けて輝き出す霧の世界。それは恐ろしい程に神秘的な廃村の姿だった。

 すると少し先の方でぼそぼそと人の声が聞こえる。先客がいるなと思いつつ歩いて行くと、霧の中に現われる集団の姿が見えた。

 それは、いかにもその村に住んでいるであろう感じの人々だった。

 頬被りをした老婆や、鍬を持った男性、腰の曲がった老人などが井戸を囲んで何かを話し込んでいるのだ。

 咄嗟に、邪魔しちゃいけないと言う気持ちと、見付かってはいけないと言う妙な危機感で、僕とY氏はその場で立ち止まり様子を見た。

 住民達は井戸の中を覗きつつ、何やら真剣な口調で意見をしている。僕は小声で、「全然廃村じゃないじゃないか」と愚痴り、そっとその場を辞した。

 さて、人がいるならば話は別だ。見咎められでもしたら少々面倒な事になる。そうして僕らは村を出ようとしたのだが、どうにも違和感がある。見ればどの家も荒れ放題で、中には朽ちて倒壊し始めた家屋まである。果たして本当にこんな場所に住民がいるのかと言う疑問。

 少しだけ考え直し、霧が晴れてきたタイミングでもう一度さっきの場所へと戻ろうと言う事になった。

 だが、先程見掛けた住民の姿はどこにも無い。どころか人々が集まっていた筈の井戸さえ見付からない。

「もしかして、あれを見間違えたのかな?」と、Y氏はとある場所を指差す。

 確かにそれは見ようによってはそう見えるのかも知れないと、僕は思った。ぽつんと一つだけ置かれた墓石と、それを取り囲む卒塔婆が数本。

 今度こそ僕とY氏は、脇目も振らず集落を後にした。

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