#633 『シンクのフチ子さん』

 夫と別れ、新しい新居に落ち着き一人暮らしを始めたのは良いのだが、初日から奇妙な出来事に見舞われた。

 引っ越し荷物に囲まれながらの最初の夜。うとうととし始めた辺りで、「べこん」と言う音で飛び起きた。

 続いて、「ダダダダダダ――」と言う、水が“何か”を打つ音。私は咄嗟に、キッチンのシンクだと察し、見に行った。

 そしてそれは思った通りで、微かにシンクの内側が濡れている箇所がある。おそらくは蛇口の中に溜まっていた水が何かの拍子でこぼれ落ちたのだろう。

 だがあの、「べこん」と言うヘコみ音が良く分からない。おそらくそれもシンクの中からなのだと思うのだが、そこをヘコます程の圧力を掛けるものが無いのだ。

 分からないまま一夜が過ぎた。そしてそれ以降、夜中になれば必ずその音が聞こえるのである。

 不思議な事はまだあった。シンクの蛇口の位置である。

 いつも私は使いやすいようにそれを真っ直ぐ自分の方へと向けているのだが、音がした後に見に行けば、それは常に右か左か、違う方へと向いている。

「分からないなぁ」と首を傾げ、そしてそのままその現象に慣れながら一ヶ月が過ぎた。

 ある日の事、高校時代の同級生が泊まりに来た。そしてその晩の事、トイレにでも起きたのだろう友人が、キッチンで「うわぁ」と小さな悲鳴を上げている。

 続いて、まるでシンクの中で魚が跳ねているかのような音がし始める。さすがに何事だと思い見に行けば、今まさに「ずるり」と排水溝から音がして、“何か”が吸い込まれて行った瞬間だった。

 翌朝、私と友人はそこのアパートを管理する不動産会社へと向かった。

 そして友人が強気で問い詰めるが、その部屋は事故物件ではないと言う。

 友人がその夜見たものは、どう言う体勢をしているのだろう、上半身をシンクの中に突っ込み、下半身をだらりとその外へと飛び出させている女性の身体があったと言う。

 要するに私が見たものは、その排水溝に吸い込まれる女性の足だったに違いない。

「シンクの中は汚れた皿で一杯にしとけ」と、友人のアドバイス。

 性格的にそれはちょっと嫌だったのだが、言う通りにすればその怪音は鳴らないのである。

 きっと、とても綺麗好きな女性だったに違いない。

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