#632 『河岸のマエハマさん』

 私が父と一緒に、S県にて寿司屋を営んでいた時の事。

 当時の私は素行が悪く、高校には進学出来ず、仕方無しに父の経営する寿司屋にてアルバイトを始めた。

 だが思ったよりも私の飲み込みが早かったらしく、父はまだ暗い中、港の河岸へと私を連れて行き、魚の買い付けから教えてくれていた。

 そんな中、河岸の市場の中をうろつく一人の中年男性の姿を見付けた。

 男性は特に何を買うでもなく、ただひたすら市場の中を歩き回り、商品を眺めているばかり。しかもその男性は毎日、同じ服装でそこにいるのである。

 ある時、私はその男の事が気になり、「あの人っていつも何してるの?」と父に聞けば、何故か私は逆に、「見えてるのか?」と聞き返されたのだ。

 なんでもその男性は“マエハマさん”と言う人らしく、普通の人には見えていない存在らしい。つまりは、この世に存在してはいない人間と言う事だ。

 だがその市場ではそれなりに見えている人はいるらしい。顔馴染みとなった商店の親父さん達は、「若いのにアレ、見えてんだって?」と、私に聞いて来るほどだった。

 だが、その肝心のマエハマさん。一体いつからそこにいて、何をしている人だったのかは誰も知らないのである。どころかその“マエハマ”と言う名前さえも適当で、どこぞの商店の主である“前浜”と言う人に似ているから付けられた名前らしい。要するにそのマエハマ氏については、素性どころか名前すらも謎なのだ。

「いいか、マエハマさんと逢っても絶対に目を合せるなよ」と、父はいつもそう強く言っていた。当然、声を掛ける事すらよろしくない行為だと言う。

 ある時、私一人で買い付けに出掛けた時の事だ。「いいの入ってるね」と真横から声を掛けられ、「そうですね」と返事をして横を向けば、それはマエハマさんだった。

 マエハマさんは僕に向かってにっこりと笑い、「才能あるよ」と言うのだった。

 私は父の忠告を破り、マエハマ氏と言葉を交わしてしまった。だが特に何が起こると言う事もなく、回転寿司チェーンの勢いに負けて店を畳むまで、私は時々、マエハマ氏の姿を河岸で見掛けたものだった。

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