#615 『露天風呂の案内看板』
夫と二人で、某温泉地へと旅行に出掛けた時の事だ。
宿に到着してすぐに「風呂に行こう」と夫が言い出す。そこの宿には二つの風呂があるらしく、一つは宿の中にある大浴場。そしてもう一つは屋外にあると言う露天風呂だ。
「露天風呂から堪能しよう」と夫は早速浴衣に着替え、用意を整える。
私は少し抵抗があったが、嫌なら一人で戻ってくればいいと思い、夫に付き合う事にする。
露天風呂は、宿の裏手から出て行った先にあるらしい。案内に従ってそちらへと向かえば、木製のサンダルが並んだ勝手口らしき場所が設けられていた。
私と夫はそこでサンダルを履き、外へ出る。暖簾をくぐったその先に、“露天風呂”と書かれた矢印付きの看板があった。
見ればその看板の先は無骨な石段であり、それはなだらかな上り坂で、丘の方へと続いている。
「どうする?」と、私が聞くまでもない。夫は迷わずその石段を登って行く。
しょうがないなとばかりに私もその後に続くのだが、露天風呂は想像以上に遠いらしい。ある程度登った辺りで次の看板が出て来て、それは細い小道へと向かっている。
「こんな所入って行くの?」と私が聞けば、「なかなかの秘湯みたいだな」と、夫は笑う。どうやら諦めるつもりはまるで無いらしい、夫はどんどんその道を進んで行った。
やがて道は林道へと差し掛かる。私はつい不安になり、「これ間違ってない?」と聞くのだが、「合ってるみたいだぞ」と、夫は前方を指差す。見れば確かにその先に、“露天風呂”の案内看板があった。
道は今度はなだらかな下り坂となった。次第にその道の両側から伸びる草が迫って来るようになり、ついには着ている浴衣を擦るほどまでになっていた。
やがて道は二股の分岐となった。左は“滝”と書かれた看板。右は“露天風呂”となっている。
「これはもう浴衣で来るような場所じゃないんじゃない?」私は言うが、「もうすぐだから」と、夫は諦める事を知らない。
道が次第にぬかるみ始めた。さすがに、「もう嫌だよ」と私は不満の声を上げたが、夫はいたってのんきに、「どうせ風呂入るんだから汚れたっていいじゃない」と笑うだけ。そしてまたすぐに、“露天風呂”と書かれた看板がその先に見えて来た。
背の高い木々が生い茂るようになって来た。陽が遮られ、道はとても暗い。
次第に妙な匂いが鼻に付くようになって来た。夫は、「湯の匂いだな」と言うが、どうにも私にはそれが疑問に思えて仕方無い。
向こうの木の根元に、“露天風呂もうすぐ”の看板があった。何故かその看板だけ木漏れ日が当たり、物凄くそれだけが浮き上がって見えた。
「もう着くよ」と、夫は嬉しそうに言う。そしてその看板を過ぎた先に、“それ”はあった。
――戻った宿で、夫と一緒に事情聴取に応じた。聞かれた事は通り一辺倒の事ばかりで、とても私達を疑っているようには感じられないのが唯一の救いであった。
横たわった遺体は腐って木の上から落ちたものらしく、死後何日かが経っていたと言う。
私はその後で、宿のオーナーに食って掛かった。だが私の苦情とオーナーの言い訳がことごとく食い違っており、良く良く聞けば露天風呂は宿の敷地内にあるのだと言う。
確かにその風呂は、宿のすぐ脇にあった。ならばあの看板は何なのだと、夫も私に加勢して来る。だが宿のオーナーは、そんな看板など出していないと言い張るのである。
ならば見てくれとオーナーを連れて外へと出るが、行けば何故か看板どころか宿から出てすぐにあった筈の石段さえも見当たらない。
私は夫と一緒に、通った道筋を詳しく語って聞かせた。だがオーナーが言うには、この近くにはそれに近い道は無いと言う。
だが滝へと向かう二股の分岐の道だけは存在しているらしく、右へと向かえばただの突き当たりで、そのせいか誰もそちらへと進む人はいないのだと聞いた。
だがしかし遺体を見付けた直後、私と夫はその道を逆に辿ってこの宿へと帰って来ているのである。
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