#612 『早く逃げろ・弐』
前夜と良く似た話を、別の人からも聞いた。今夜はそのお話し。
――埼玉県某所にあるキャンプ場へと出掛けた時の事。
車を駐車場へと停め、管理棟で申し込みをして河原へと降りた。
河原はもうテントで一杯だった。僕は比較的川に近い場所に陣取る。真横にはかなり大きめのタープを張っている人がいた為、先に挨拶を済ませた。それはとても温厚そうな、若い男性二人組であった。
テントを張り終え、火を起こす。後はもう夜まで何をするでもなく、持ち込んだビールを飲んでだらだらと過ごす予定だった。
そうしていつの間にか寝てしまっていたのだろう、突然誰かに身体を揺り動かされ、「起きて!」と呼ばれるまで、辺りがすっかり暗くなってしまっていた事にすら気が付いていなかった。
続けて、「早く逃げて」と呼び掛けられる。その声で、その誰かは女性だと言う事が分かる。
ふと身を起こす。その誰かは砂利を踏みつけ去って行ったのだが、振り返れば何故かもうその人の姿は無い。――どころか、周囲には誰の姿も無くなっていた。
あれだけ多く張られていたテントもタープも、何一つとして目に映らない。微かな月明かりの下、そこにいるのは自分一人だけだと言う事だけは理解出来る。
「早く逃げて」――と言う、先程の言葉が反芻される。
「逃げなきゃ」と僕は呟き、急いで靴を履き、荷物の全てをそこに置き去りのまま管理棟へと向かった。
驚いた事に管理棟は、もぬけの殻であった。まるで何年も使われていないかのような荒れ方で、完全に廃墟然としていた。
慌ててキャンプ場の入り口へと向かえば、何故かそこにはバリケードが張られ、黄色と黒の虎ロープすら渡されている。
何か変だ。思って車へと向かえば、何故か僕の車は何年もそこに放置していたかのように埃まみれとなっており、指先でフロントガラスに悪戯書きまでされていた。
タイヤの潰れた車へと乗り込み、キーを回す。するとエンジンが掛かるどころではなく、スターターの回る音さえも聞こえない。
どうしたものかと思っていると、想像以上に良く寝ていたらしい、夜が白々と明け始めて行くではないか。
あぁ、朝だ――と、安心するのも束の間。辺りは流れて来た濃霧に包まれ、朝日の中で白い闇に囲まれたような気分となった。
そこに、“誰か”がいた。しかも一人はない、かなり大勢の姿が見えた。
どこに行くでもなく、同じ場所に立ちすくむ大勢の人影。それが濃霧の中で見え隠れしているのである。
突然、バン! と音がする。僕は跳ね上がらんばかりに驚き、音のする方を見る。
誰かが、車のボンネットを叩いていた。但しその誰かは手の先しか見えておらず、それが男女のどちらかなのかすらも分からない。
その誰かは執拗に、「もう遅い……もう遅い……」と繰り返し、ボンネットを叩く。そして僕はそんな光景を眺めながら、情けなくもその場で失神をしてしまったらしい。
再び気が付けば、駐車場には人が溢れかえっていた。今から帰る人もいれば、今到着した日ともいる様子で、僕はようやく安心して車を降りた。
河原へと向かえば、僕の隣にいた大型タープの男性二人が帰り支度をしている所だった。
するとその二人は僕の顔を見るなり、「大丈夫ですか?」と聞いて来る。僕が「何がですか?」と聞き返せば、「かなりの酔いでしたでしょう」と笑うのだ。
良く良く二人の話を聞けば、昨夜は延々と僕のテントの中からうなされた声が聞こえていたらしく、しきりにテントの内側を叩きながら、「もう遅い……もう遅い……」と繰り返していたと言うのだ。
車は、ちゃんと動いた。埃にまみれている事もなく、タイヤも潰れてはいなかったが、何故かボンネットの外側には“誰か”が叩いたのであろう手形がべたべたと付いていた。
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