#611 『早く逃げろ・壱』
とある休日、家族三人でピクニックへと出掛けた。
行き先は近隣にある大きな公園である。電車を乗り継ぎ昼前には到着したが、既に公園内には大勢の人が遊びに来ている様子だった。
野原の一画にレジャーシートを広げ、早めの昼食を取った。私は普段からアルコールの類はほとんど口にしないのだが、今日ばかりはくつろぐつもりで小さなビールの缶を一本空けてしまった。
やがて昼食も済み、妻と娘は持って来たラケットでバドミントンを始めた。
私は酔いも手伝ってか、園内に吹く風がやけに心地良く、ついついシートに寝そべり昼寝を始めたのだ。
あっと言う間に睡魔に襲われ、意識が遠退いて行く感覚があった。
やけに静かだなぁ、いい気分だなぁと考えながら、深い呼吸をし始めた頃、突然に“誰か”が僕の真横まで走って来た。
まず足音が聞こえた。そして荒い息も聞こえた。その誰かは僕の傍まで来ると、僕の胸や腹に手を当て、「起きて!」と、強い口調で揺り動かしたのである。
夢うつつで声を聞きながら、男だと直感する。そしてその男は尚も、「早く逃げて」と言い残し、再び急いで立ち去って行った。
僕が目を開けた瞬間、かすかだがその後ろ姿を見た。「誰だよ」と言いながら身を起こし、そして僕は軽いパニックに陥る。
そこには誰もいなかった。僅か数分前には大勢の人が詰め掛けていたのを覚えているのだが、今は何故か誰の姿も見当たらない。
妻と娘の姿も無い。振り返り、僕を起こしたであろう人を探すがそれも無い。僅か一瞬で、その広大な公園の中から人っ子一人いなくなってしまったのだ。
「早く逃げて」――と言う、先程の言葉が反芻される。
「逃げなきゃ」と僕は呟き、急いで靴を履いて公園の出口へと向かって走り出す。
園を抜け、表の通りへと出る。片側二車線の大きな通りだと言うのに、車の一台も走っていない。
僕はすぐに通りの横道へと逸れ、裏側から駅に向かって進む事にした。
だが、なんとなくいつもの見知っている通りではないような気がした。何故か通りがやけに狭く、暗いのである。
いくつかの角を曲がり、入り組んだ迷路のような飲み屋街を抜け、僕は家の前へと出る。
急いで玄関のドアを開け、しっかりと中から施錠する。
電気のスイッチを操作するが、明かりは全く点かない。テレビのリモコンも同様で、モニターは何も映さない。
何があった――? と、そう思った時だった。ブンと音がして、テレビから音声が聞こえて来た。頭上では照明が瞬き、それとほぼ同時に家の固定電話が鳴り出した。
出るとそれは妻だった。「ねぇ、もう家なの?」と聞かれ、「うん、そうだけど」と僕は答える。
それから一時間半ほどして、妻と娘が買い物を終えて帰って来た。
そして夕食後、公園で何があったのかをお互いに話し合った。
僕は信じてもらえないだろう前提で全てを話したのだが、何故か妻も娘も「納得行った」と頷いたのだ。なんでも僕が寝ている所に若い男性が駆けて来て、何かを話しているのを二人は見ていたと言うのである。
男はすぐに立ち去る。そして今度は僕が起き上がり、凄い勢いで駆け出して行ってしまったらしい。
「待ってても来なかったから電話した」と妻は言う。
とりあえず僕は、知らない路地を抜けて家に帰り着いた事だけは伏せておいた。
なにしろ自宅と公園とでは、十三駅も離れているのである。
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