#610 『血塗れの女』

 怪談ではないのだが、語り手がとても怖い思いをしたであろう話の二夜目。

 関東在住の、Fさんと言う女性の体験談である。

 ――私の家は、駅からかなり遠い場所にある。

 徒歩で約二十数分。慣れればたいした事の無い距離ではあるが、帰り道、残業で疲れた身体にはなかなか堪えるのである。

 ある晩の事、旧友との飲み会で盛り上がり、帰りが終電となってしまった。

 地元の駅を降りるも、既にどの店も閉まっており、タクシーの一台も停まっていない。

 あぁ、面倒臭いなぁと思いながら歩き始めるのだが、かなりの酩酊ぶりで足下がかなり危うい。そして私はついつい、通ってはいけない方の路地へと向かってしまう。

 その通ってはいけない路地とは、駅から家までをほぼ直線で結ぶ最短ルートなのだが、長い塀ばかりが続き他へと折れる道が無い。その上、頻繁に痴漢やひったくりが出没する道だと噂されているので、日中でもあまりそこを通る人はいないのである。

「さすがに痴漢ももう寝ている時刻でしょ」と、安易な考えでその路地へと踏み込む。だがすぐに私はその事を後悔する羽目になった。私が歩く速度と同じ早さで、背後を付いて来る靴音が聞こえ始めたのだ。

 心臓が有り得ない程に高鳴る。どうしよう? 助けを呼ぶか、それとも走って逃げるか。

 多分どちらも駄目なような気がする。なにしろその路地の塀は高く、悲鳴は聞こえないだろうし、こんなハイヒールでは早く走れる筈も無い。

 靴音がどんどん近付いて来る。もうこのままだと確実に追い付かれる。そう思った私は、一計を案じた。

 バッグの中からこっそりと口紅を取り出す。そして街灯と街灯の切れ目の暗闇へと入った瞬間に、私はその口紅を顔中でたらめに塗りたくる。

 そして準備は完了。私はまた口紅をバッグにしまい、次の街灯の真下で立ち止まる。

 さぁ来い! 思った瞬間、背後から聞こえる男性の声。

「あの、大丈夫ですか?」

 その声と同時に振り向けば、若いスーツ姿のその男性は、「ひぃえぁぁぁぁぁ――」と、意味不明な悲鳴をあげてその場に崩れ落ち、綺麗な白目を剥いてひっくり返る。

 やばい、やっちまった。思った私はヒールを脱いで、あらん限りの早足で家へと向かう。

 もしかしたらさっきの男性は、私を助けようとでもしてくれていたのか。それなら申し訳ない事をしたと反省しながら、家の浴室で私はメイクを落とした。

 翌朝、酷い二日酔いで昼過ぎに起きた私は、居間でのんびりとテレビを観ている母親から奇妙な噂を聞いた。

「ねぇ、そこの痴漢が出る路地ね。ゆうべ女の人の幽霊が出たんだって、騒ぎになってるよ」

 なんとなく――心当たりはあった。

 被害に遭ったのは近所に住む若い男性で、一人の女性があまり治安のよろしくない路地へと入って行ったので、心配に思って付いて行ったのだと言う。

 そこでその男性は女の人の幽霊に出くわす。白いブラウスとスカートの、長い髪の女性。その女性はふと立ち止まるとくるりとこちらを振り返り、顔面と服を鮮血で染めながら不敵な笑みを浮かべて空中に消えて行ったと言う。

 それを聞きながら私は、なるほど幽霊話はこうして出来上がって行くのねと感心をした。

 ちなみに昨夜の私は、ジーンズパンツにデニム生地のシャツ。そして髪型は昔から変わらないボブカットである。

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