#606 『野営地』
寝袋と一人用の小型テント、そして僅かばかりの生活用品を詰め込んで、自転車での旅行へと出掛けた。
それなりの長旅となったが、目的地にも辿り着け、後はただ帰路に着くだけであった。
さて、帰り道となる最初の夜。周囲が木々に囲まれた公園を見付け、隅の方にテントを張って眠りに就いた。
やがてうとうととし始めた頃、シャーッ、キキーーッと、近くに自転車の停まる音。
おや、通報されて警察でも来たか? 寝袋の中でそんな事を思っていると、その誰かは私のテントの横までやって来て、「申し訳ありません、不安なので横にテントを張らせてもらっても良いですか?」と訊ねて来た。声からするに若い男性のようである。
なるほど同じ趣味の旅人か。思った私は、「あぁどうぞどうぞ、ご遠慮なく」と、テントから顔を出す事もなくそう答えた。
そうこうする内に、私のすぐ真横で何やらごそごそと作業を始める音がする。そうなるとこちらもどこか安心するもので、その晩は珍しくゆっくりと寝る事が出来た。
翌朝、充分に陽が昇ってから目を覚ませば、既に隣のテントの人はいなかった。
私は荷物を積み込み再び帰路を辿る事となったのだが、その日の夜、誰もいない無料キャンプ地で寝袋に潜り込めば、またしてもシャーッ、キキーーッと、近くに自転車の停まる音。
「申し訳ありません、不安なので横にテントを張らせてもらっても良いですか?」
声を聞いて、おやと思う。確かに昨日の夜に聞いた男性の声に似ているし、なによりその台詞が一字一句同じなのだ。
だがこうして野宿を繰り返していると、前日に同じ場所で寝泊まりした人とかち合う事はかなり頻繁にある。私の場合は四日連続で顔を合わせた人もいて、今もその事は旅仲間の中で話題に登る事があるぐらいだ。だからその時もさして心に留めず、「あぁどうぞ」とだけ返事をして、そのまま眠りに就いた。
翌日、起きて外を見れば私だけ。朝の早い人だなと思い支度をし、そしてその晩もまた同様に、「横にテントを張らせてもらっても良いですか?」と来るのである。
そしてついに四日目。またしても例の男である。しかも今回は雨の心配があるため橋の下での寝泊まりだったのだが、そんな場所にまでその男は付いて来るのだ。
「申し訳ありません、不安なので横にテントを張らせてもらっても良いですか?」
聞かれて私はまた、テントの中から顔も出さずに、「いいよ」と答える。
だが今回はそれに付け加え、「悪いけど明日にはもう家に着いちゃうからさ」と続けた。
「もうここまでにしてくれるかな? 家まで来られちゃ困るから」
言うと男は「分かりました」と笑った。つられて私まで笑ってしまう。
翌日、起きるとやはり男はいない。だが代わりに、私が寝ていた場所のすぐ近くに酒と花束と線香の燃えかすが置いてあるではないか。
後日、私は家に着くなりその橋の下で何があったのかを調べた。そしてそれはすぐに出て来た。自転車の旅行者、何者かに襲われて亡くなる――と言う古い記事。
あぁ、なるほど。あの男が言っていた言葉の意味が分かったと思った瞬間だった。
あれからまた私は、長い休暇を取る度に自転車で遠出の旅をしている。
そして例の橋の近くを通るルートであれば、いつもそこの橋の下に花を置き、手を合わせてから出掛けるよう心掛けている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます