#602~603 『笹船』
蔵にまつわる話、二話目。少々長いので前編と後編に分けさせていただく。
これはとある地方出身の、Fさんと言う女性のお話し。
――それは私がまだ小学校の低学年だった頃の話だ。
そこはいわゆる過疎の村で、人口はとても少なく、私の通う学校は全校生徒合わせて僅か十数人程度。しかも私の学年は他に誰もおらず一人きり。従って私は上の学年の子と一緒の授業であった。
帰りはいつも、上級生の男の子二人と一緒だった。帰り道の遊びはいつも様々であったが、一番面白かったのは村中に流れる用水路に、笹舟を流して競争をすると言う遊び。そしてその日も、同じ事をしながら帰っていた。
笹舟には、自分のものだと言う印を乗せて流した。ルールはとても簡単で、スタートからゴールまで、その印を乗せたまま一番最初に到着した笹舟の勝ち。途中でその印が落ちたり、笹舟がどこかの分岐の用水路へと外れたりしたら負けである。
私はその笹舟の上に、印である赤い実を付けた小枝を乗せた。
そしてその日の競争は私の負けだった。とある橋の下をくぐった後、私の笹舟だけが出て来なかったからだ。
とても残念な気持ちで家へと帰ったのだが、何故かその日は家に誰もおらず、私は玄関でランドセルを下ろすと、裏の池の方へと向かった。
すると無くなった筈の私の笹舟が、その池の中央に浮いているではないか。どうやらどこかの流れで笹舟はここまで流れ、行き着いたらしい。
私はどうしてもその笹舟が惜しく、なんとかして取り戻そうと躍起になっていると、突然背後から「やめなさい」と声が掛かった。
振り返れば、裏の土蔵の二階の窓から、見知らぬ女の人が覗いているのが見えた。
黒髪を短く切り揃え、黒の襦袢を羽織った若い女性。
私はびっくりした。その土蔵は決して入るな、近付くなと言われていた蔵で、そこに人がいるとは思ってもいなかったからだ。
女の人は、「池に落ちると危ないから」と諭し、笹舟を諦めるよう促した。そして私はそれに従った。恥ずかしい話だが、私はその女性に一瞬で一目惚れをしたのだ。
それは一種の憧れのようであった。普段は周りに男子しかおらず、しかも姉と呼べる存在も無い。要するに、年上の同性の人への興味がそうさせたのだと思う。大人しく家へと帰り、どきどきとしながら先程の女の人の事を思い出した。
また逢えるだろうか。名前は何と言うのだろうか。思いながら翌日を迎え、ランドセルを背負って玄関を開ければ、なんとそこには例の笹舟が置かれてあったのだ。
咄嗟に、あの女の人が拾ってくれたのだと理解した。私はそれをそっと手に取り、もう一度部屋へと引き返す。そして押し入れの中に笹舟を隠し、それから学校へと向かった。
女性とは、行く度に逢えた。但し家族からの、「蔵に近付くな」と言う教えがあったため、家に誰もいない時だけと言うのが条件ではあった。
女性は、“リン”と言う名前だった。リンさんは、幼い私に色んな事を語って聞かせてくれた。リンさんはとても穏やかで、いつもその顔に笑みを浮かべ、私が聞いた事にはなんでも答えてくれた。
そしてリンさんと逢ったその翌日は、必ず玄関先に何かが置かれていた。それはいつも他愛も無い小さなものばかりで、色違いの木の葉数枚だとか、糸を通した木の実のペンダントだとか、その辺に行けば当たり前に拾えるものばかりだったが、何故か私にとっては全てが宝物のように思え、どれ一つとして捨てる事など出来ない大事なものであった。
やがて私の部屋の押し入れの一角は、リンさんからもらったプレゼントで一杯になった。
ある時の事、いつも通りに玄関先に彼女からの贈り物が置かれてあったのだが、私がそれを見た瞬間、心臓が跳ね上がりそうになるぐらいに胸が高鳴った。それは綺麗な細工が施された赤い櫛で、それはまるでリンさんそのものであるかのように儚げで、そして美しかった。
拾う手が震えた。今までにもらった全てが宝物であったが、今回のそれは比べものにならないぐらいの尊さで、こればかりは一生大事にしようと言う気持ちさえ感じられた。
そうして櫛を勉強机の奥に隠し、私は暇さえあればその櫛を眺めては彼女の事を想うようになった。
そして両親が相次いで結核に罹り、入院する事になったのは、それから数日後の事。
その事に対し、「何かおかしい」と祖母が言い、「お前、何か隠してないかね?」と私に尋ねる。
私は咄嗟に、リンさんの事を思い出す。なんとなくだが、その件について祖母から咎められるような気がしたのだ。
「やはりお前、何か隠してるな?」言って祖母は私の部屋へと向かう。私はそれを必死で止めたのだが、部屋の戸を開けるなり、「なんじゃこれは!」と祖母は怒鳴った。
押し入れの宝物も、そして引き出しの奥の櫛も、祖母に全て見付かり取り上げられた。逆にどうしてリンさんからの贈り物だけ判別出来るのだろうと、不思議に思うぐらいだった。
私な泣きながら「返して」と懇願したが、「お前は親が死んでも同じ事が言えるのか?」と一喝され、引き下がった。
祖母はそれらを持って家を出た。向かう先は裏の蔵だと直感で分かった。
そして祖母が戻ると、僅か数日で両親は「完治した」と言って退院し、そして更に数日後には祖母が自室でひっそりと亡くなってしまったのだ。
私はその事をとても悔やんだ。祖母を死なせたのは私だと理解し、それからは二度と裏の蔵へと近付く事をしなくなった。
それから二十年ほどの時が経ち、私は違う土地で結婚を果たし、家族を持った。
それは長男が中学へと進学した頃だ。夫の転勤が決まり、引っ越ししようか単身赴任しようかと言う相談を持ち掛けられたのだが、赴任先を聞けばそれは私の実家のあるすぐ近く。その事を両親に伝えると、「戻っておいで」と、とても喜んでくれた。
やがて私達一家は、私の実家へと越す事となった。その事については長男の武彦も反対はしなかった。なんとなくだが武彦は学校に馴染めておらず、ストレスを溜め込んでいた事を私は知っていたのだ。
実家へと戻ればもう既にそこは過疎の村ではなくなっていて、近代的な施設や店の並ぶ、賑やかな街へと生まれ変わっていた。
さて、私の家族は新しい生活へと溶け込んだものの、僅か数ヶ月で夫が突然に病で倒れた。
病名は――今ではあまり聞く事も無い、結核と言う古い病だと言う。
私の脳裏に、様々な出来事がよみがえる。あぁ、あの時と何かが似ていると思っていると、母が風呂敷に包んだ“何か”を手渡すのだ。
「何これ?」と聞けば、母は「おばあちゃんからよ」と言う。なんでも祖母は亡くなる直前に、「いつかあの子が困ったらこれを渡せ」と言い残していたらしい。広げてみればそこには古びた真鍮の鍵があった。
私は全てを理解した。そして私は、かつて自分の部屋だった場所――息子の部屋をからりと開ければ、その部屋のあちこちに、“片鱗”だと思える彼女からの贈り物を見付けた。
息子の武彦は慌てた。必死で止めに来るのだが、私はずかずかと中に踏み込み、机の引き出しを開ける。
奥に、見覚えのある赤い櫛があった。見た瞬間に理解した。これはあの女性が息子に贈ったものだと。そしてその櫛こそが、あの女性そのものなのだと。
泣きながら「やめてくれ」と言う息子の頬を引っぱたき、「あんたはお父さんが死んでも同じ事言える?」と一喝する。
そして私は部屋中の“片鱗”を拾い集め、祖母から貰った鍵を片手に裏手の土蔵へと向かったのだった――
と、御年六十となるFさんは筆者である私にそう語ってくれた。
「それからどうなったのです?」と私は聞くが、Fさんは笑って、「そこからは答えられないの」と言う。
例の鍵は、孫娘に託す事としたらしい。
蔵は今も尚、そこに存在している。
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