#600 『焼きおにぎり』

 これはまだ筆者が小学生だった頃の話である。

 ある時期、訳あって親元を離れ、“織田さん”と言う遠縁の親戚の家で暮らしていた時があった。

 織田家には、老夫婦が二人で暮らしていた。おそらくは二人とも年金暮らしだったのだろう、仕事はせずに一日中二人でテレビを眺めながら毎日を過ごしていた。

 私に二階の空き部屋が与えられた。だが私はその部屋を使うよりも、もっと魅力的な空間があった。それは庭先に停められた一台の乗用車。織田さん家のおじさんは既に免許を返納しているらしく、既にその車は不要のものだったのだ。

 何故か僕はその車の中がとても気に行っていて、部屋にいるよりは車内の方が落ち着く為、休日ともなれば大量の本と毛布を車に持ち込み、日がな一日そこで読書をしていた。

 それはある休日の日の出来事だった。朝からそぼ降る雨を避け、いつも通りに私は車の後部座席へと乗り込む。

 昼食時に家へと戻ったのだが、何故かおじさんとおばさんの姿が無い。

 食卓にはかなりの量のおにぎりが皿に乗って置かれてあった。私はそれをいただいたのだが、味がまるでしない。具も無ければ、塩もまぶされていなかったのだ。

 そうして再び車の中へと戻ったのだが、車の屋根を打つ雨の音がやけに心地良く、私はいつの間にか毛布に包まって眠りに落ちてしまっていた。

 気が付けば既に夜だった。私自身、こんなに眠ってしまったのかと驚き身を起こす。

 ふと気付く。母屋の明かりがまるで無い。もしかしてまだ帰っていないのかと不安になり、私はそろそろと家へと戻る。

 開けっぱなしの玄関を開け、スイッチを押す。だが明かりはまるで点かない。

 おじさんと、おばさんの名を呼ぶ。だが応えはまるで無い。

 どうしようかと玄関先で悩んでいると、からりと居間の障子戸が開き、「上がってこう」と“誰か”に呼ばれた。

 途端、得も言われぬ香ばしい香りが漂って来た。向こうには微かだが明かりが灯っており、そこには確かに“誰か”がいた。

「腹ばぁ減っとんだろう」と、その“誰か”は話し掛けて来る。声からするに老人男性のようだが、それはおじさんの声ではない。

 上がって行けば、それは居間の床に置かれた七輪の火の明かりだと言う事が分かった。その“誰か”は七輪の上で例のおにぎりを炙っているらしく、香ばしい匂いはそこから出ているようだった。

「食え」とおにぎりを一つ、渡される。それは驚く程に美味く、私はあっと言う間に一つ目を平らげる。

「“ねぎみそ”を塗ってんのよ」と、その“誰か”は笑う。シンプルだがとても深い味わいの焼きおにぎりだった。

 私はおじさんとおばさんの行方を聞いた。するとその“誰か”は、二人は今夜は帰らないだろうと言う。

 私はそれ以上の追求はせずにいると、「もう遅いから寝ろ」と言う。そして私はそれに素直に従って、その場でごろりと横になると、車に持ち込んでいた毛布に包まった。

 ――翌朝、目を覚ませばそこは車の中だった。おかしい、確かに私は居間で寝た筈。思い起き上がれば、何故か外がやけに騒がしい。

 窓越しに、外にいる人と目が合った。それは確かに以前どこかで逢った記憶のある、知り合いのおばさんだった。

 おばさんは私の顔を見るなり、「生きてた!」と叫ぶ。するとその声を聞き付け、大勢の人が私のいる車を取り囲んだ。

 全く訳が分からなかった。口々に、「大丈夫?」とか、「怪我はしてない?」などと聞かれるのだが、「何があったの?」と言う私の問いには誰も答えてくれない。

 結局僕は、“そのまま”、別の親類の家に預けられる事となった。“そのまま”とは全くそのままの意味で、私は母屋に自分の荷物を取りに行く事すら叶わず、移動を余儀なくされたのだ。

 それっきり、織田家のおじさんとおばさん、そしてその家がどうなったのかはまるで知らない。

 まるで幻のような出来事ではあるが、私は未だ鮮明に、あの時にいただいたねぎみその焼きおにぎりの味を覚えている。

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