#599 『神田川沿いの飲み屋』

 親父が亡くなった。その日の午前中の事だ。

 医者を呼び、死亡診断書をもらう。そしてすぐに葬儀屋の手配。同時に我が家の代々の墓がある寺にも連絡する。

 親父の亡骸は顔に布をかぶせ、寝室に寝かせた。そして後はもう翌日まで何もする事は無い。

「飲み行って来る」と夕刻、俺は一人、家を出た。それには母も祖母も何も言わなかった。なんとなくだが、今までに親父に連れて行ってもらった店で孤独に飲みたい気分だったのだ。

 家は神田川沿いにある。そして親父が良く飲みに行っていた店も全て川沿いだ。俺は家から一番近い店を選び暖簾をくぐる。すると中にいた常連客達が皆、俺の顔を見て笑うのだ。

「何だよ?」と聞けば、入れ違いで親父が出て行ったと言う。いやいや、そんな馬鹿な。親父は今朝亡くなった――とは言わず、そうかと黙って頷き、席には座らず次の店へ行く。

 だがおかしな事に、行く先々で、「今しがたまで親父が来てたぞ」と言われる。しかも全てが「入れ違い」だと言うのだ。

 いや、そんな馬鹿な。思って俺は次から次へと店を渡って歩くのだが、何故かどこに行っても同じ返答。俺は川をさかのぼるようにして歩き、いないはずの親父の姿を探し続けた。

 そして最後の店。親父はそこが大好きで、俺も良く一緒に連れて行かれた店。

 思えば妙な意地で、ある時を境に親父とは一緒に飲まなくなった。何故か親と一緒に飲むのは恥ずかしいものだと勘違いしていた時期なのだ。

 暖簾をくぐる。すると店の常連は俺の顔を見て、「おっ、今日は親父と一緒かね」と笑う。

 どう言う事だと聞けば、先に親父が一人で来て飲んでいると言う。

「今、あんたと入れ違いでトイレ立ったよ」と店の女将が笑う。

 見れば親父が良く座っていたカウンター席に、コップ酒が一つ置かれてあった。

 俺はその横に座った。「同じの一つ」と注文すると同時に、とめどなく涙が溢れて来た。

 目の前にはなみなみと注がれたコップ酒が二つ。それを眺めながら、親父は世話になった人々に挨拶に来ていたのだろう。そして最後の店で、俺が来るまで待っていてくれたのだろうと、そんな事を考えていると、思わず嗚咽が止まらなくなってしまったのだ。

 客の誰もが俺の奇行を眺めつつも、構わずにいてくれた。もしかしたら何かを察してくれたのかも知れない。トイレには、誰の姿も無かったと言う。

 数年後、俺は所帯を持って子供も出来た。生まれて来た息子に、「大きくなったら一緒に飲みに行こうな」と何度も話し掛け、その度に嫁から怒られる毎日である。

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