#594~595 『鶴姫』
大学の卒業を間近に控えたある日、私は同じ大学の友人である育子と一緒に、某県へと卒業旅行に出掛けた。
一日目の観光を終え、宿泊先へと向かう。そしてその翌日は、宿からバスで二十分ほどの場所にある武家屋敷を巡る事となった。
さてその武家屋敷。表から見るよりも内側はやけに広く、狭い廊下と小さな部屋が数多く存在しており、それはさながら迷路のようですらあった。
窓は少なく、廊下にぽつんぽつんと点在する裸電球だけが唯一の光源で、とても頼りない。
私達は所々に置かれてある矢印の看板通りに進んでいたのだが、気が付くとその看板がどこにも見えなくなってしまったのだ。
「ねぇ陽依(ひより)、順路から外れちゃったんじゃない?」と、育子が聞いて来る。
確かにそうだ。少し戻ろうと提案したのだが、今度は戻る道が分からない。
「こんな場所で迷子とかならないよねぇ?」と育子は不安そうに言うが、私はもう既に迷子の部類なのではと感じていた。
確かこっち――と、見当を付けて歩いていると、曲がった角の少し先に若い女性が二人、廊下に立ちすくんでいるのが見えた。
声を掛けようかどうかと迷うより先に、向こうが私達に気が付いた。
「あの……ちょっと助けていただけませんか?」と、二人は私達にそう言った。なんでもその廊下の先にある部屋に女の子が一人で入って行き、姿を消してしまったと言う。
私と育子もその部屋の中を覗き込むが、何故かその部屋はぞっとするぐらいに暗く、まるで何も見えない。
「あそこに電話がある」と、育子が非常用の電話の受話器を取り、そして用件を告げた。
育子はその電話機に書かれているナンバーを読み上げる。そうして受話器を置くと、何分も待たずに係員の中年の男性が駆け付けて来てくれた。
先程の女性二人が事の次第を話すと、その係員さんの表情がどんどん険しくなって行き、「どこに消えたのですか?」と言う問いに、二人の女性が先程の部屋を指差すと、今度こそその男性は小さな悲鳴を上げ、「なんで開いてるんだ」と、意味不明な呟きを漏らす。
男性は先程の電話に飛び付き、「××さんを出してくれ」と話し、何やら深刻そうな声で「“鶴の間”に誰かが迷い込んだそうです」と告げるのだ。
そしてその係員さんは私達に、「ちょっとの間、ここで待っていてもらえませんか?」と頼んだ。もしまたこの部屋に誰かが入ろうとしたらそれを止め、そしていなくなった女性が部屋から出て来たら、すぐに戸を閉め、私が戻るまで見張り番をしていてくれと言うのである。
それには私と育子も、そして先程からいた女性達も、素直に頷いた。
係員の男性は慌てて駆け出して行く。残された私達はとても不安な気持ちで立ちすくんでいたのだが、突然育子が、「誰か呼んでる」とおかしな事を言い始めたのだ。
「部屋の中から声がする。行かなきゃ――」と、部屋に向かって歩き始める。私は咄嗟に、「ちょっと待って」と止めるのだが、私よりも小柄な育子の腕力はすさまじく、簡単に私の腕は振り解かれる。
それを見て先程の女性達が育子を止めに入る。だがその二人ですら育子に引き摺られるようにして部屋へと向かって行ってしまう。
「誰か呼んで来て」と、女性の一人からそう言われた。同時に三人の姿が、“鶴の間”へと消えて行った。
私は弾けるようにして、先程係員さんが向かった方へと走り出す。だがそこから先の廊下は更に入り組んだ迷路状で、途端に私はどこをどう走っているのか分からなくなってしまった。
やがて、最初に入った屋敷の入り口へと辿り着いた。だがそこは既に閉門されていて、重い木の扉は完全に塞がっている。
思えばそこにいた筈の受け付けの女性も、そして大勢いた筈の客の姿も何も無い。
どう言う事だろう。まだ昼にもなっていないのにと、非常用の電話を探すがどこにも見当たらない。
なんだか――様子がおかしいと気が付く。どこか空気が変わってしまったような。家の匂いが前と違っているような、そんな気がしたのだ。
何故か、今が夜であるような錯覚を覚える。私は廊下を進んで奥へと向かえば、向こうからちらちらと灯りの洩れ出る部屋が見える。
若干だが、障子戸の開いた部屋があった。見ればそれは行灯の明かりらしく、そっと覗けば囲炉裏を囲んで“誰か”数人がそこに座っているのが見えた。
笑い声が聞こえる。男性と、若い女性の声だ。私は存在に気付かれないようそっと後ずさりしたのだが、「おいでぇな」と中から声がして、“気付かれた”と察した私は廊下を走り出した。
そうしてどれぐらい走ったのだろう、息切れを起こして足を止めると、どこからか小さく、「陽依ー!」と叫ぶ育子の声が聞こえる。
思わず私も叫んだ。「育子ー!」
すると向こうにも私の声が聞こえたか、何度も何度も私の声を呼ぶ。そして私はその声を頼りに廊下を進めば、やがて長く暗い廊下へと出て、その向こうにか細く小さい光が見えた。
それはどうやら懐中電灯のようで、大きく右に左にと揺れながら、「陽依!」と声が聞こえて来る。
そして私はようやく育子と再会が出来た。見れば懐中電灯を持っていたのは先程の係員さんで、「良かった」と安堵の声を漏らした。
そうして私達は無事に、その屋敷から出る事が出来た。
外へと出るとやはりまだ時刻は昼前で、私と育子は少し早く昼食を取ろうと近くの店へと落ち着いた。
「さっきさぁ……」と、私は自分の身に起こった出来事を話したのだが、育子は「いや、あの部屋の中に踏み込んで行ったのは陽依だよ」と、大真面目な声で言う。もう既にそこから話しが食い違っているのだ。
結局、育子が体験した話は聞かせてもらえなかった。
「気分悪いからやめとこう」と、それっきりその出来事について語られる事は無かった。
そしてそれから約十年もの時間が経った。育子とは今も交流が続いている。
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